Miyape ban 01.jpg

2012/12 山猫踏切周辺の石碑

提供:ミヤペディア
移動: 案内, 検索

 震災前年の2010年7月31日午前7時33分、JR山田線茂市駅から分岐する岩泉線は押角駅と岩手大川駅間で脱線事故が発生した。この事故は茂市発岩泉行きの車両1両が土砂崩れにより軌道内に堆積した土砂に列車が乗り上げて脱線、乗客3名と乗務員2名が負傷した。事故原因は長年にわたる降雨や地震、凍結融解作用などにより表層付近の岩盤の緩みや風化が少しずつ進行し、斜面全体が徐々に不安定な状態となり崩壊したもの。昭和17年に軍事需要から釜石の製鉄所へ耐火粘土や木材を運ぶため敷設された岩泉線は山峡の斜面を谷に沿って走る路線であり、今後地盤崩落や落石なども含め同様の事故が起こりうる場所はJR東日本の調査によると111箇所もあるという。

 事故以来岩泉線は震災をはさんで運休となり2年以上が経過た。その間、茂市駅と岩泉駅は若干の所要時間に誤差はあるが列車と同じダイヤでバスによる代行運転が行われている。しかし、昨今、JR東日本では今後の列車安全運行にかかる対策工事復旧費用に130億円を要すると算出、年々利用者の減少も続いていることから岩泉線の復旧を断念、鉄路からバスによる地域交通へとシフトすると発表した。これに対し沿線地域では存続を訴え、県では対策工事復旧費用額算出を再検証し、より低額での復旧工事を提唱しているが、震災による沿岸路線の復旧も手がつかないまま今後の行方は不透明な状態だ。

 さて、現在運休中の岩泉線・中里駅と和井内駅の間に『山猫踏切』という変わった名前の踏切がある。踏切があるのは宮古市刈屋第3地割で小字名で『赤根畑』という旧国道340号線沿いだ。現在は集落を迂回した東側をバイパスが通っており気をつけないと見落としてしまう。今回はこの周辺にある神社や石碑群を散策した。

 赤根畑という地名の「赤根」は採掘や製鉄などに関係し「錆」などを意味すると思われる。というのもこの地区の土壌は細かく砕いたような礫が混ざっており田畑にはあまり向かないようだし、この礫が古い時代に鉄鉱石やマンガンなどを平堀したボタ山を均したようにも見えるからだ。沿岸の重茂地区にも赤根浜という断崖の海岸がありそこは金属を腐らせる鉱泉が湧いておりやはり赤錆びた岩盤が連なっている。赤根畑の上流部は和井内で、刈屋川に合流する安庭沢にはやはり鉱泉が湧く安庭山荘があることから、鉄やマンガンを精錬した製鉄遺跡のイメージがわいてくる。

 最初の石碑はユニークな木工製品を製作している内田木工所の裏手にある石碑群の中にある石卒塔婆だ。石碑はベージュ色の花崗岩で厚さが10センチほどだ。中央には竪遍三界横括九居(けんへんさんかいおうかつくい?)と解読不明な碑文がある。年号などはないが形状は卒塔婆だが墓碑ではなく追善供養の石碑と思われる。

 次の石碑は石卒塔婆の隣にある一字一石塔だ。中央上部に胎蔵界大日如来を意味する梵字アーンクがあり、奉・廓通増進大乗妙典一字一石圓満足□とある。その左右には浅い彫りで□全宗了貞信士、為・法庵妙心信女、本願・長崎春峰銘之、正徳元年(1711)龍集辛卯(かのとう)十月十九日とある。その他にも中心から左右に細かい文字があり願皇帝万歳、願君臣千秋などの願い題目が並んでいる。そして右下には願主として中東従侶、高橋為胸とある。文字が多く複雑だが旅の六部衆らがこの地で満願を迎え、その時代の当地有力者の援助で供養碑を建てたものと思われる。

 次の石碑は駒形神社境内にあるこの地方から生産された定神号という種牡馬の顕彰碑だ。碑文は漢文だが要約すると、定神号は明治28年(1895)刈屋村外山牧場の小山田栄次郎、中里永田放牧組合の種牡馬として藤村慶次郎が担当飼育していた。この馬は31年間にわたり奥羽6県共進会において一等賞金杯を戴き、当地の牧畜において改良進歩の源となったが、明治45年(1912)病死した。大正4年(1915)には組合でこの種牡馬を讃え顕彰するため碑を建立した…。というような流れの文章が刻まれている。最後に白井種穂撰並書と碑文を書いた人物の名がある。外山牧場は安庭沢を登り夏刈山から堺ノ神山へ至る山稜地で和井内放牧場として古くから使われていた牧野だ。明治期には戦地で使われる馬の生産が盛んで旧新里村でも牧畜が盛んだったが現在は廃れ馬の生産は行われていない。それでも牛馬の安全を願う駒形神社の信仰は残り、神社は地区民の信仰のよりどころになっている。

 山猫踏切は宮澤賢治の童話に出てきそうなモチーフだが、周辺に山猫がいるわけでもなくそれらしい地名や小字名もない。なのにどうしてこの踏切に「山猫」の名を付けたのかは不明のままだ。

表示
個人用ツール