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2012/10 大杉神社石碑群と織部灯籠

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 大杉神社は太平洋廻りの廻船航路が拓けた江戸後期に、下総、上総、安房など千葉・銚子方面との交易が盛んになり鍬ヶ崎の藤井氏が銚子のあんば様を勧請したのがはじまりとされる。当初社は現在の宮古漁協ビルが建つ鏡岩の高台にあったが、愛宕神社に移転、その後昭和5年(1930)に現在の位置に遷宮した。この経緯からみれば現在の大杉神社境内は昭和8年以降に開墾された場所でそれ以前は単なる山であったと思われる。定置網の豊漁と安全を守る大杉神社の縁日は8月16・17日で盂蘭盆会の最終日で「あんば夜祭」として大いに賑わった。明治・大正期は遊芸組合や消防では派手な山車を作り芸妓を乗せて旧館方面まで練り歩いた。遠くから見物人も集まり、祭は大変賑やかだったという。この夏の祭が戦後には神社を管理する宮古漁協や、宮古商工会議所の企画で「宮古みなとまつり」、「みやこ夏まつり」へと進化して現在に至る。さて、そんな大杉神社の移転経緯を記したのが最初の石碑だ。碑は社殿右脇にあり中央に移転(轉)記念・昭和五年八月、右に湊大杉神社総代・総代、濱崎忠助、坂下留吉、鳥居文平、島香幸三、吉田儀七、太田長三、左に前総代、野崎徳助、小笠原直三、社掌、鈴木豊四郎とある。

 大杉神社境内にはこの他にいくつかの石碑がある。境内はひと昔前は青葉遊園と命名された公園だった。広場とブランコが整備され水場もあったが少子化が進んだ現在、この境内で遊んでいる子どもを見かけることはまずない。自分が子どもだった昭和40年代にはこの神社の広場でよく遊んだ。当時、愛宕に住んでいた少年たちはこの広場を「忠魂碑」と呼んでいた。子どもたちが忠魂碑と愛称で呼ぶほどだから、境内にはよその忠魂碑よりはるかに立派な忠魂碑が建っていた。子どもたちはその碑の意味も知らず鎖にぶら下がって遊んだり碑の正面にボールをぶつけて遊んだりしていた。この忠魂碑は高さ4.3mありおそらく宮古市最大の大きさで石段のある台座には大型船舶の錨の鎖のようなごつい鎖のモールがある。碑の中央には明治廿七八年戦没、忠魂碑、左に陸軍中将・渡辺章書・陸前井内、石井慶治謹刻とある。

 次の石碑は石碑と言うより工芸品に近い。戦国時代の武将であり茶人だった・古田織部が考案デザインした織部灯籠と呼ばれる石灯籠部材の「竿」部分だ。下部には一段彫り下げた窓がありそこに人物らしき像が陽刻で浮き彫りになっている。この灯籠は昭和32年に宮古市指定文化財になっている。指定を推進したのは当時の県文化財審議委員も務めた重茂出身の彫刻家・吉川保正氏だ。織部灯籠は彫り下げた窓の上部に「F」や「h」などのアルファベットに似た模様が刻まれたものもあり、竿部分が十字架にも似ていることから彫り込まれた像をキリストやマリア像に見立て、切支丹灯籠とも呼ぶようだ。しかし大杉神社にある灯籠にはアルファベットの痕跡は見あたらない。しかも、この灯籠が本歌の織部灯籠であれば、誰がどんな経緯で持ち込みどうしてここに存在しているかが疑問だ。一説には江戸期に空荷の船がバラスト代わりに江戸方面から積んできたとも言われるがそれだけでは存在理由にはならない。そこで本稿では次のように推測する。

 この灯籠は大杉神社一帯を所有し大正2年(1913)のちの内閣総理大臣であり山田線工事着工を決めた原敬を招くために建てられた菊池長右エ門氏の別荘「対鏡閣」にあった灯籠ではなっかのか。合わせて境内にある大正6年(1917)宮古海戦碑、天明三年(1783)の鴨墳の碑(昭和32年宮古市指定文化財)など、ほとんどの石碑が対鏡閣の庭に配されていたのではないのか。

 対鏡閣はその後の昭和8年の三陸大津波を視察にきた皇室方の宿泊場所として利用されるなど私邸ではあったが宮古の迎賓館として機能したが、昭和11年に本格稼働した田老鉱山から鉱石を運ぶ索道の終点に位置するため、解体され鍬ヶ崎から磯鶏へ移転した。その後、戦時中から敗戦後に財閥解体等で菊池家が一時宮古から転出しており対鏡閣移転に関する詳細は資料不足で詳細は不明だ。

 最後に再度、織部灯籠について推測すると、古田織部が築いた織部焼などの桃山文化は江戸初期に廃れ一時期忘れ去られた。しかし、江戸後期の天明期(1781~9)に140年の歳月を経て織部焼は復興する。この時期に焼き物とともに織部灯籠なども復興し盛んに作れたのではないか。この時代ならバラストでなくとも交易品として持ち込まれたとも考えられる。灯籠は宝珠、傘、火袋、中台、竿、基礎の5パーツから成る構造物だが、これらは仏のような意匠があった竿を除き他の部材は移転の際に紛失、あるいは心ない盗難による欠損と思われる。

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