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2012/09 隠れ里伝説の根底と松山・隠れ里の石碑

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 風力を頼りに船が動いていた頃、海上から陸が見えなくなる附近からさらに沖へ出ることは死を意味し同時にそこは冥界であった。そこには海で死んだ者たちが永遠にさまよう異界と時間の止まった極楽浄土のような竜宮があると信じられていた。同じように明確な地図や測量ができなかった時代、山は死人の魂が帰る場所であり、そのまた奥の深山には神々が住んでいる桃源郷があると信じられていた。

 ある木樵が山中で迷ってしまい彷徨っていると見たこともない大きな屋敷の前に出てしまう。山に精通している木樵であったがこのような大きな屋敷が山中にあったことを知らなかった。木樵は恐る恐る中に足を踏み入れるが屋敷に人影はないし牛馬や鶏まで誰もいない。なのに竈には火が掛けられ湯が沸き料理などが仕込まれ、あたかも今から宴でも催される気配が漂っている。木樵はなんだか急に怖くなり屋敷を飛び出し一目散に走るうちなんとか里へ通じる道へ辿りつく。後日、木樵は山中で遭遇した屋敷を探すが二度と見つからなかったという。このような話しは日本全国にあり柳田国男の『遠野物語』では『マヨヒガ(迷い家)』として、江戸期の妖怪絵師・鳥山石燕は『今昔百鬼拾遺』でネズミ浄土をベースに『嘉暮里(かくざと)』として、やはり江戸期の浮世絵師・葛飾北斎も『北斎漫画』で『家久連里』として紹介している。

 このような山奥の長者屋敷伝説の根底には戦から逃げおおせた者たちが隠れ住んだという落人伝説が流れている。そのような場所には沢水が大量の米のとぎ汁で濁ったとか、箸や椀が流れてきたという逸話があり、前述の木樵のように山中で大きな屋敷に遭遇する話しが伝えられている。

 このような隠れ里伝説は宮古下閉伊地区にも多く、特徴としていくつかのパターンに分けられるようだ。まずひとつは巨岩や巨木に関するもので、山中に露出した巨岩を屋敷跡に見立て、かつてこの地に強大な権力をもった人物が暮らしていたとする長者屋敷伝説、次が木樵などが山中で彷徨い遭遇するものだが必ず黄金などの話しがつきまとうもの。そして村が藩の検地には記載されない隠し田を隠匿するために語られたものだ。これらに当てはまるのが岩船と蟇目をつなぐ山中にあったという屋敷の基礎と見える巨岩が並ぶという長者屋敷の逸話、重茂半島にあったとされる伊豆方面から流れてきた落人の村・麦生曽利とその備蓄していた黄金を狙う盗賊・破風坊の逸話、奥州藤原氏の黄金文化を支えたという川井・遠野・金沢にまたがる白見山山中にあるという砂金の沢とマヨイガの逸話、そして松山に今も字地名として残る実際の隠れ里などだ。ちなみに松山に伝わる昔話には、ある日の夜に何十頭もの牛が数珠つなぎになって松山の峠を登って行ったが八木沢方面に出た気配はなかった。後日沢の水が白く濁ることが度々あり里人は山の奥に隠れ里があると噂したという。

 語り継がれてきた隠れ里とされる所は通常の世界の苦しみやしがらみがまったくない別天地であり、迷い込んだ者にとってこの世に現れた理想郷であり極楽だ。しかし、時が経つにつれ人はやはり苦しみと苦渋に満ちた現実へ戻りたい衝動に駆られついに元の世界へと帰ってゆく。すると隠れ里で過ごした数日は数年に相当しており、家へ戻ると自分の葬式が済んでおり妻や父母も信じられないほど年老いている。こんなはずはないと自分が体験したことを家族に語り終えた頃、身体も精神も一気に老化し髪が抜け落ち呆けてしまうのだった。

 基本的に隠れ里とは何らかの目的で秘匿された特定の場所であり、むやみに一般人を近づけたくない目的がある。それが宗教的なものか、隠し田や猟場などの経済的なものか、あるいは金山のような地下鉱脈的なものかは判らない。しかしながら、その地に隠れ里伝説が残るということはそこが特定の人にとってある種の大切な場所であった事実があるはずだ。

 今月の石碑は松山地区の旧字地名隠れ里周辺の石碑を撮影した。現在の隠れ里は松山10地割と八木沢3地割が接する附近の山林で数軒の民家がある。近年は開発が進み三陸道や宮古齋苑が造られ周辺は拓けたがひと昔前は隠れ里という地名にふさわしい環境だったと思われる。

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