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2012/06 達筆な書体の養蚕供養塔

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 心の中で大きく膨らんだ信仰心や、記念すべき出来事を何らかの形にして後世に残そうと建てられてきたのが石碑だ。建立に際しては個人の場合もあるし、信仰に準ずる複数の人や、その地域の人が浄財を出し合って建立する場合もあったろう。今のような近代的設備をもった専門業者がいなかった時代は石碑にする手頃な石を選定し大勢でそれを運び、建立場所を確保し刻む文字を決めたら、碑文を僧侶などに書いてもらいそれを石工が石に貼り、時間をかけて少しずつ文字を彫ったのだと思われる。

 宮古では江戸中期の元禄期にはすでに個人の戒名が刻まれた墓碑が存在しており、この時代にすでに戒名を与え檀家制度をもつ曹洞宗が定着していたことがわかる。同時に墓に文字を刻む石工や文字が刻まれていない墓石を売買する石屋(石切屋)も存在したと思われる。墓石とした石はこの時代は現在の四角錐のようなものではなく、全面が平で背面は荒く削った半円、先端は尖ったような意匠で戒名は一段低く彫り込まれた額に文字を刻み戒名に続き「禅定門」などの戒名文字がある。これらの墓碑の石質は花崗岩のようだがこれらが宮古地方で産出したのか、廻船品として船で運ばれたものかはわかっていない。ただ元禄期は東廻りと称される太平洋航路はまだ樹立しておらず、他の地域からの廻船品であれば日本海経由で持ち込まれたと考えられる。時代が下って江戸末期の天保から文化文政期の墓碑は方形で柔らかく掘り下げた文字が浮き立つキメの細かい材質の石が多く見られる。これらの墓石は東廻りの太平洋航路で江戸方面から持ち込まれた墓碑材だという。

 さて、墓碑にせよ石碑にせよ戒名やお題目、神仏の名称を刻んで後世に残そうとする行為の源流は同じであろう、ならばその石碑が時を経ても何を目的として建立されたか判るような文字で彫られたものでなければならないはずだ。難解な文字の石碑は見た目は立派だが意味が理解されずその石碑に込められた信仰の思いも薄れてしまうからだ。まして、その神仏をバックアップし同時に崇める産業が衰退してしまうと石碑が建立されてきた意味までも失われてしまう。今月はそんな石碑を巡ってみた。

 最初の石碑は花原市華厳院参道にある。石碑は倒れた状態だが中央に達筆な楷書で蚕供養とあり、右側面に大正六年(1917)七月十六日・花原市一同建立とある。

 次の石碑はより達筆で難解な文字だ。石碑は蟇目地区JR蟇目駅付近の交差点にあり、中央に蚕神、右に安政四丁巳春(1857・ひのとみ)、左に三月十六日当村中、下部に山口氏、利助、又兵衛など14名の連名がある。

 次の石碑は茂市の熊野神社境内の本殿脇の石碑群の中にあるものだ。中央に蚕神、右に元治元年(1864)村中、左に甲子(きのえね)仲秋吉日、世話人六右衛門とある。

 最後の石碑は和井内地区の手前から北へ入った平沢地区にあるもので、中央に蚕神、右に慶應元年(1865)、左に七月吉日、下部に願主・当組忠五郎、勘右衛門、喜右衛門とある。

 これらはみな養蚕農家が生業とはいえ、蚕の繭から糸を取るため大量に殺してしまう蚕のさなぎに対してこれを供養するために建てた供養塔でもある。だが、ここで注意したいのはこれらの石碑の楷書文字の共通性だ。かなり崩した文字であり、もしかすればこの4基の石碑のうち何基かの文字は同一人物の手によるかも知れない。4基は華厳院の大正期のものを除けばほぼ江戸末期のものであり、文字の崩れ方に共通性があるようにも見える。また、当時の石碑の文字は博識ある寺の僧侶などが書くことが多く、加えて蟇目、茂市は花原市華厳院の檀家であり刈屋の高松院は華厳院の末寺であったことから、これらの地区では華厳院の影響力は大きく、碑文は同時代の華厳院の僧侶によるとも考えられる。

 石碑は後世に残り道路工事や区画整理で多少は動きながらも今も神社の参道や境内に建ち続けている。しかし養蚕のように産業自体が衰退すればその時代の信仰も忘れられ、しかも達筆な書体で刻まれた石碑はそう簡単に読み取れるものではない。達筆な書体を見ていると日本人なのに日本語を読めない現代人にとって「この程度の漢字が読めないのか」と先人の叱咤が飛んできそな思いもするし、広告宣伝関係の生業から言わせてもらうと、石碑は大衆が簡単に読める文字で表記してこそ効果があるのでは…。とも思ったりするがいかがなものか。

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