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2012/05 東日本大震災津波供養塔

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 震災から一年が過ぎ、また今年も桜の季節を迎えた。思えば昨年の今頃はどうであったかと誰もが過去を振り返るが、思い出すのは瓦礫に埋もれたふるさとと、深い悲しみの底に落ち込んだ辛い思い出だけだ。今更ながら、よし、頑張ろうと奮起しても被災地の現実は厳しいもので復興や再生ははるか遠い彼の地にあって、自分が生きているうちにたどり着けるのだろうか?と落胆する。

 震災後、約1ヵ月間、自宅のある崎山から編集部のある松山へ自転車通勤をした。出社に要する時間は約40分、帰りは登りの連続で90分ほどかかった。老体には辛く過酷だったが自転車通勤だったおかげでかなりの写真が撮れたのも事実だ。放置され痛んでゆく家屋、解体される家屋や土蔵など自動車を運転していては撮れない写真も多かった。毎日通る通勤コースは常安寺墓所の坂だ。勾配は20%以上で行きはよいよい帰りはこわい、葛折りの難所である。そしてそこで見るのは連日の火葬風景と喪服の集団だった。最初は目を伏せて見ないようにしていたが次第に慣れてしまい何も感じなくなった。朝早くから炉が稼働し黒煙が昇る、自転車を押しながら登る夕方もやはり煙が出ている。あの日、あの時、毎日、何人もの人が火葬されている現実があったのだ。従兄弟親戚にも犠牲者があり葬儀も営まれたが緊急時であることもあり香典だけを届けて葬儀には出席しなかった。昨年は毎年の恒例行事である盆でさえ略式で実家の仏を供養するだけで精一杯だった。

 そんな震災の思い出もいつかは懐かしくなる、そんな日が早くきて欲しいと願うだけだが、あれだけの大災害の現実とその痛みと絶望が風化することなくを後世に伝えてゆくのも私たちの使命でもある。そんな礎となるのが今回の東日本大震災における津波供養塔だ。

 最初に紹介する供養塔は常安寺参道に建てられたものだ。石碑正面には東日本大震災物故者供養塔、右側面に寄進者一同とあり大本山永平寺副貫首・南澤道人、曹洞宗宗務庁、財団法人日本仏教会、曹洞宗岩手県宗務所、財団法人埼玉県仏教会、石黒玄章、一重兼三、等連名57の名称が刻まれた金属プレートがある。左側面には大本山永平寺副貫首・道人謹書とあり、石碑後には平成二十四年三月十一日小祥忌立辰・当山二十四世代建立の年号と、この惨禍、永遠に忘れる事なかれ、津波予想あるときは直ちに高台に避難せよ。平成二十三年(二千十一年)三月十一日四時四十六分十八秒宮城県牡鹿半島沖震源、東北地方太平洋沖地震、日本観測史上最大マグニチュード九・0大津波波高十メートル以上、最大遡上高四十・五メートル(重茂半島・姉吉地区)、死亡一万五千八百五十二人、行方不明者三千二百八十七人(警察庁調、平成二十四年二月二十日現在)と刻まれた金属プレートが嵌められ、台座正面には当山檀徒物故者銘、78人の名前が刻まれたプレートが嵌められている(別記)

 次の石碑は田老地区常運寺の参道にあるもので正面に平成二十三年三月十一日、海嘯物故者諸々霊、常運大意英世・謹書(落款)とあり、背面に物故者154名の名前が刻まれている(別記)石碑左脇には卒塔婆があり、奉・海嘯物故者資助覚霊荘厳報地者也と筆書きされている。卒塔婆前には海嘯供養塔御寄進者芳名として、宮古市国民健康保険田老診療所・所長・黒田仁、田老診療所職員一同、玉澤健児、常運寺梅花講、田老漁業共同組合、小幡誠、常運寺総代一同と木札が建てられている。  どちらの石碑も震災一年後を期に建てられたもので今後多くの人々が手を合わせる石碑となるだろう。

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