Miyape ban 01.jpg

2012/02 コアップガラナと駅前通りの思い出

提供:ミヤペディア
移動: 案内, 検索

 昨年暮れに音楽関係の内輪忘年会をやった際、ベース担当の彼がコアップガラナをラム酒で割って飲んだ。彼曰く「ウーン、ヤッパス、ウンメー/うーんやはり旨い」と納得。彼は昔からラム酒を割るならコアップガラナだと思っていたそうだ。コアップガラナは南米の強壮剤ガラナの香料を使った清涼飲料水だ。独特の芳香がありそのクセにはまれば中毒になりそうな味だった。コアップガラナの宮古上陸年代と詳細は定かでないが昭和40年代前半と思われる。

 当時、すでにボンネットバスは「インナグナッテ/姿を消して」いたがバスにはまだ車掌さんが乗務し次の停車場名と停車・通過を客と運転士に口頭で知らせていたて。その時代、僕は小学4年生だったと記憶しているから西暦1968年、すなわち昭和43年である。保育所時代に藤原から小山田の市営住宅あけぼの団地へ引っ越した僕は小山田保育所を経て藤原小学校に通っていた。その頃僕はずっとこの団地で過ごし「オッキグナル/大人になる」と信じていたが、あえなく千徳小学校へ転校となった。しかし時期的に学期が「ハンパクセー/中途半端」だというので数ヶ月間、学区外の千徳から藤原小学校へ通っていた。言わば当時は珍しいバス通の小学生だったのである。藤原小学校で授業が終わると宮古駅まで歩いてそこから千徳方面へ向かうバスに乗った。当初行き先表示の「ねし=根市」「はなはらし=花原市」「はかめ=蟇目(漢字読み間違い)」「かみくら=神倉」「ながさわろっくみ=長沢六組」などは初めて見る難解な地名だった。こんな「ドゴサイグドモ/何処へ行くとも」わからないバスに「ノサッテ/乗って」大丈夫なのか?と都会の地下鉄に乗って行き先が不安になるお上りさん状態だった。しかし慣れてくると駅前のバス乗り場は楽しかった。駅前書店の棚には立ち読み用の棚があって少年マガジン・サンデーは最新号をいち早く読めた。そんなある日、駅前のバス乗り場に人だかりがあった。人混みをかき分けて「イズバンメーサ/最前列に」行ってみたらなんと新発売の清涼飲料水の無料試飲会だった。大きなブリキの「キッツ/枠」に氷が浮かんで冷たい水に浸かっていたのはコアップガラナの小振りな茶色のビンだった。担当の人は次々に栓を抜いて並んでいる人に渡して行く。その光景を人垣の前でずっと「コッコマッテ/しゃがんで」見ていた僕に担当の人が「はい、どうぞ。コアップガラナ!」と渡してくれたのであった。今考えれば無料試飲会・配布なんて販売促進の手法とすればごく普通なのだが、当時、公衆の前でタダでものを「ケル/配る」なんて行為は見たこともなかった。しかも、幸運にもその「ホマヅ/帆待ち・臨時収入・おこぼれ」をいただけるなんて…、と、期待に胸膨らませゴクリと飲んだその味はクスリ臭い微妙な味だった。「ホマヅ」で新製品のジュースをもらい目を輝かせ、一口飲んでその味にがっかりする少年の表情に担当の人はきっと「このクソガキが…まぁ」と思ったことであろう。

 あの頃はバス会社(岩手県北バス)の車庫が築地にあって車庫の壁にパナマ帽をかぶってラッパ飲みする外人男性の絵があるコアップガラナの看板があった。場所は今のラガマル石油や菊長商店付近だったと思う。周辺にはバス停もいっぱいあって走っては止まりを繰り返し小刻みに市役所前、築地一丁目、二丁目、渡船場前という風に停車していた。バス会社の大きな看板を見るたびに僕はあの試飲会で飲んだクスリ臭い味を思い出すのだった。しかし、肝心のコアップガラナを販売している「ミセヤ/お店」はなく、もう一度あの味を体験したいと思った頃はコアップガラナは忘却の彼方に消えていた。実際は当時の夜の飲食店などで販売されていた可能性もあるが、少年にとって探し当てる術もなく幻の味として味覚中枢の「オグスマ/奥隅」に置かれたままになっていた。

 70年代になり日本にはなかった経営システムに派手な広告としゃれた音楽やキャッチコピーで煽るアメリカ商法コカコーラは売れに売れた。姉妹品のファンタ、それに対抗するやはりアメリカから乗り込んできたペプシ、姉妹品のミリンダなど横文字の清涼飲料水が市場にあふれ景品や王冠のスピードくじなどの販促で消費者の心を掴んでいた。そしてついにビンの時代は終焉を迎え缶コーラが登場する。それまでも缶ジュースというカテゴリはあったのだが、付属の缶切り(ツメ)で「アナータデデ/穴を開けて」その穴から飲むかグラスに移すかであった。主に列車の車内販売などで売られおり缶=面倒のイメージが強かった。そんな図式を塗り替えたのがプルリング式の缶だ。リングを引けば大きく空いた飲み口からストレス無くごくごくと飲める画期的缶だった。この缶の登場で清涼飲料水の図式はビンから大きく缶へとシフトした。残念なのはビンはビン返し10円だったから、子供達がビンを拾い集め「コズゲーセン/お小遣い」を稼ぐという楽しみがなくなったことだ。缶は使い捨てだったのでほとんどがポイ捨てされ後にはゴミ問題となった。

 急成長する清涼飲料水市場で「オイデガレル/取り残される」のが地サイダーやラムネだった。ローカルではあるが名水として詠われた地域の水を使った「ナツカスー/郷愁の」味は今でも心の中にまで「スモッテ/染み渡って」いる。コアップガラナやコーラなどなっかた時代の宮古の夏は「キューダデ/旧館(俗称)愛宕」の小笠原ラムネであった。青緑色のビー玉を「オッツビッテ/押して」吹き出した泡に急いで口を付けて飲んだあのラムネの味、水道水で冷やしただけのサイダーから溢れる大粒の炭酸、どれもが思い出の景色とともに味覚中枢に記憶されている。  昭和サイダーは明治末期から生産された宮古発の地サイダーで金雄舎ラムネとして登場した。その後大正末期にサイダーも製造開始、新たに昭和の時代となったので名を昭和サイダーと改名した。後昭和39年の東京オリンピックを境にラムネ製造を中止、サイダーを中心にミルクオレンジなどの様々な製品を手がけてゆく。しかし、手軽なプルリング缶の登場と生産力の少ない地サイダー製造では大手に対抗できず生産が減少、平成13年、製造に幕をおろし昭和サイダーは市場から消えた。

 昭和40年代当時の食堂には入口横のショーケースに中華そばやラーメンの食品サンプルに並んでビールと小笠原の昭和サイダーと細身のビンに薄橙色の液体が入ったミルクオレンジが立っていた。当時、食堂でジュースを飲む行為はもの凄く豪華で高級なイメージがあった。小笠原のミルクオレンジはどんな味がしたのか?飲む機会のないままいつしかラインナップから消え、ショーケースにはコカコーラとファンタオレンジが並んでいるのだった。

懐かしい宮古風俗辞典

たごつった

水で足が濡れること。おもに水たまりにはまって足と靴が濡れた状態を言う。

平成の大合併で宮古弁と認識されるエリアは山間部へと広がり、遠野や盛岡、岩泉の方言影響を受けた地区で使われる言葉も宮古弁になった。いくら国際化しようが島国根性が抜けない日本人、しかも無口で閉鎖的な東北圏において町境、郡境、県境においての方言のぼかし状態は結構狭くきついが、やはり境目は二重方言地帯であることに変わりはない。では東西南北の二重方言地帯において、どの宮古弁で認識度をチェックするか。その実験に最適なのが「タゴツッタ/足が濡れた」であろう。岩泉、盛岡、遠野に隣接する各地区で「タゴツッタ」の意味が通じるのか?ちなみに遠野は「キャパル」と言う。宮古弁の「タゴ」とは海のタコではなく、水くみに使った「タンゴ」という桶だ。足が濡れた理由を失敗ではなく「家の水くみ仕事をしたんだ」と言い訳的に表す。また、水が入った履き物を「タンゴ」に置き換えた可能性もある。これを「宮古弁タゴツッタ考」という。調査論文発表はしばらく先になるだろう。

表示
個人用ツール