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2012/01 僕のわが町デビュー

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 その昔、ミニコミブームが到来した70年代後期の1977年、本誌『みやこわが町』は創刊した。時にマイルドセブンが新発売され、ピンクレディーのUFOがバカ売れした年だ。僕はこの年、横浜の専門学校に通い都会と田舎のギャップを感じながらひたすら貧困に耐えていた時期だ。夏、なんとか金を工面して帰省した僕は昔の彼女と会ったりして都会へ行くのは「ヤッタグナッテ/嫌になって」いた。だが僕はすぐに都会へ戻ることにした。道を間違えたであろう予感はあったがその時はとにかく専門学校を卒業することしか目標がなかったのだった。

 最初に『みやこわが町』という冊子を見たのはきっと僕が夏の帰省をした77年の夏だったのだろう。親父が古い友人からもらったのだという。上手いとも下手とも言えないような独特の水彩画が表紙になっていて、やたら文字が多くペラペラめくるだけで「オダクサン/たくさん」という感じの冊子だった。思えば親父の友人とは元編集部で僕の文章に赤を入れまくった詩人・盛合要道氏であり、冊子の表紙は後の僕の友人の妻の父親、増坂勲氏の水彩画だったのである。

 翌年春、成績下位ながら晴れて専門学校を卒業、故郷へ戻り即実戦配備となった。しかし、現場の厳しさとその仕事の内容に大きく失望、やはり夏の帰省時に感じていた、自分の進むべき進路ではないという実感が大きくなった。そして退社後、不規則なバイト生活がはじまった。バーテン、トラックの運転手など何でもやった。とにかく遊ぶ金が欲しかった時代で金を稼いでは飲んで浪費していた。そんなある日のこと、大通りのジョイフルという喫茶店に『らくがき帳』というノートがぶら下がっていた。めくってみたら「今日は彼の誕生日。今から二人してホテルでお祝いします」とか「おまえのことは一生忘れない、おれのわがままを許してくれ」とか「ハガウギル/歯が浮く」ような手書きコメントがびっしり書かれていた。何これ?とママさんに聞いたらタウン誌の『みやこわが町』が提携喫茶店に置いている自由帳で何を書き込んでもいいという。そして優秀なものは『みやこわが町』の『わが町・らくがき町』というコーナーに載るのだという。載ったら「ナニガケンノスカ/くれるのか」と聞いたら、よっぽど「オモッセーバ/面白かったら」コーヒーぐらいは「ノマセデケンデネーノ/飲ませてくれるんじゃない」とママさんは笑った。それではとペンを握ったが何も書くことは浮かばない。仕方なくそのページに書かれていたインベーダーゲームのコメントに合わせて、インベーダーにのめり込んでいた友人がゲームをやっているイラストを描いた。そしたら、そのイラストが『わが町・らくがき町』に載ったのであった。後日、当時の編集をしていた佐々木美由紀氏、盛合要道氏にジョイフルで偶然出会いママさんが僕を彼らに紹介してくれた。その時の印象はやけに芸術ぶったおじさんだと思ったし、むこうも「ヤダラ/やたら」斜に構えた小生意気な野郎だと思ったことだろう。自分もミニコミ誌の編集もやってみたいと伝えるとならば社長の駒井雅三に頼めという。駒井雅三はほら、その角を曲がったところにある文化印刷の社長だから行って頼んで「ミドガンセ/みなさいよ」と素っ気ない。佐々木氏も盛合氏もおれらが話しを通してやるから…などとは一言も言わない。ふーんそうかと僕は思った。そしてやはり『らくがき町』に採用されてもコーヒーはおごってもらえないことを知った。

 「オメーハ、スカグガアンダースケー、ソノスゴドヲセーバイイベーガ/お前は資格があるんだからその仕事をすればいいんだ」というのが駒井雅三の言葉だった。次いで「ゼネガ、ネーノダーァ/金がないんだ」。表向きはミニコミで地域文化を育てるとは謳っているが内情は今も昔も火の車でてんで人など過剰に雇える状況ではないのだった。「ホンダラナ/じゃあな、もう帰れ」とあの偉大な駒井雅三は優しく言った。翌日、僕はまた駒井雅三を訪ねた。「マダ、オメーガーヨ/またおまえかよ」とあからさまにしかめ面で言うと、お前の給料なんか払えないと言う。ならば給料ほんの少し、いや、要らないからちょっとでもいいから働かしてくれと頼んだ。「ホンダラ、スカダネーヤッテミダラヨガベーガ/じゃ、仕方ない、やったらいい」その代わり給料はないと思えよ。と駒井雅三は二日目で折れた。

 当時、文化印刷は今はなき宮古国際映画劇場の隣にあり『みやこわが町』を発行していた陸中タイムスの事務所は文化印刷の事務所の隣に二間ほどの間口の部屋があり机が四つ電話がひとつで、すぐ隣がいつも満タン状態の便所だった。この編集部で仕事をしているのは当時タイムスの広告取りを専門にしていた大森さんという人と社長だけで他の編集員は毎朝喫茶店に集まりダラダラしていた。その頃、朝に出勤する喫茶店は今は無き扇橋の壱番館だった。編集の仕事は発行までの帳尻を合わせればその間は各自が好きなことをしていた。それが社長には見えなかったのでいつも「アイヤガドーニカガッテハ/あの連中はもう…」といつも怒って頭から湯気をあげていた。そんな状態だから発行は陽春号とか初夏特別号のようなタイトルで2ヵ月おきとか3ヶ月おきと言うのも珍しくなかった。

 それでもあまりにも僕の給料が安すぎるので、ある日編集部の黒板に「給料上げろ戦うぞ」と書いた。入社当時、給料は要らないとか言っていたくせにやはり遊ぶ金は欲しいのであった。翌朝、編集部の黒板を見たら「戦う」というところに「×」がしてあり「叫」と書かれていた。社長の仕業だった。給料闘争は会社を相手に戦うのではない。会社は敵ではないわけで給料を上げろと叫ぶのである。その意味を僕に説明はしなかったが僕はちょっと「ショースクテ/恥ずかしくて」、同時に勉強させてもらった。そしてその後ほんの「チョペンコ/少し」僕の給料が上がった。

 編集部は相変わらず喫茶店に出勤するだらけた仕事ぶりだったが、佐々木美由紀氏も盛合要道氏も確かな筋の通った文章を書いていた。僕はあいかわらず盛合氏に添削される日々だった。はっきり言って入社後5年は使い物にならなかったであろう。

 今からもう30年前の僕の駆け出し時代の懐かしい話しだ。津波の後「解体可」と書かれた中央通りの「たかしち」や中央通りの「サンジュリアン」マスターがやっていた「アルデバラン」、ずっと前に店はしめていたが末広町「エビアン」。喫茶店が輝いていたあの時代、『らくがき町』がきっかけでこの仕事をはじめ、しまいには自分が『らくがき町』を編集した。そして今は当時の各喫茶店と名物マスターが懐かしい限りだ。

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