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2011/11 津波で倒れたままになっている石碑(赤前地区~高浜地区)

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 宮古は復興の速度が早いというが、ほとんどの建物を失った田老地区をはじめ、地盤沈下した鍬ヶ崎地区、瓦礫の山となった赤前地区を見れば宮古地区の復興が早いなど単なる錯覚だと思い知らされる。

 津波は広い湾口から押し寄せ次第に湾が狭まるとその高さも増し、同時に破壊力も増大する。今回の津波ではそんな増幅しエネルギーを蓄えた巨大な波が、高浜、金浜の海岸線を破壊しながら宮古湾最深部の赤前地区を襲い、津軽石川の水門を軽々と越えて川を稲荷橋、駒形橋を越えて遡った。今月はそんな津波被害が大きかった宮古湾奥の赤前や高浜、金浜にある未だに倒れたまま、あるいは津波で消失した石碑を巡った。

 最初の石碑は赤前地区の石碑だ。この地区は何度かの区画整理で石碑はまとめられたと思われるが石碑が並ぶ道が旧街道のルートはそのまま残されていた。しかし、今回旧街道沿いにあった民家の殆どは津波で浸水し現在は解体撤去され土台しか残っていない。石碑の多くは補修されていたが1メートルを越す大きな石碑は人力で建て直すのも困難であり、加えて石碑の自重で土台下の土が流され不安定な状態だ。そのため周辺にある50センチ程度の馬頭観音は人手で起こし立て直したようだが大きな石碑二基は倒れたままだ。この石碑は文政9年(1826)の馬頭観音と、同じく文政期の西国順礼塔と思われる。石碑のバックには旧街道をはさんで骨組みだけが残る電子部品工場と瓦礫が山積みになった運動公園が見える。

 次の写真は小堀内漁港の漁船用スロープの脇にある岩場だ。その昔、赤前方面から重茂・白浜方面への街道は海岸沿いではなく海岸線の山を歩いた。小さな入り江には集落がありそれぞれ、釜ヶ沢、小堀内、堀内、白浜と小さな漁港があった。現在は道路が整備されそれらの地区を結ぶ海岸線走る県道が整備されている。各地区は高い防波堤と水門で守られていたが、今回の津波はそれを軽々と越えた。写真の岩場には震災前まで松の木が根を張り風光明媚な景色があり、岩の上には大正元年(1912)の年号がある金比羅宮の石碑があった。この石碑は今年の1月号のこのコーナーで紹介したが今回の津波で風流な松も石碑も流されてしまいただの岩場になってしまった。

 次の石碑は今回の津波で大破した金浜の神峯山・江山寺の境内にある。石碑は境内の薬師堂前にあったものだが現在碑文のある面を上にして倒れている。この碑は明治32年(1899)に建てられたもので、寛政年度義士供養塔の文字がある。石碑を建立した明治32年から100年過去に遡ると寛政11年(1799)で、この年に幕府は南部・津軽両藩に松前防備のため500名を出兵させたとされ、この石碑はその兵士らを供養したものと思われる。

 江山寺薬師堂には薬師三尊が祀られていたがこれらは明治の神仏習合の時に当時山伏が管理していた金浜稲荷神社から移管かされたものらしい。今回の津波で金浜地区は大きく被災し国道沿いの民家のほとんどが解体撤去となった。その中で民家より若干小高い丘にあった江山寺であったが大きく被災し、鐘撞堂、庫裏を消失、津波が去った直後の本堂には大量の瓦礫と自動車が入っているなど悲惨な状況となった。現在もまだ本堂の床が抜け石碑や地蔵などは倒れたままだが「少しづつでも復旧させ早く信仰のよりどころにしたい」と住職は話していた。

 最後の石碑は高浜地区の高浜地区センター前にある墓石のような石碑だ。碑には大乗妙典一字一石供養塔とあり、側面に明治元年(1868)の年号がある。高浜地区は過去の津波でも大被害を蒙っておりいち早く防波堤が建設され、年を経るごとにそれは高く改造されてきた。防波堤の上は国道45号線が走っており宮古湾側には海を埋め立てた大きな漁港施設があった。宮古湾を遡った津波は漁港施設をのみ込み防波堤を越えて高浜小学校のある高台にぶつかり大きな水柱をあげた。津波はそのまま金浜を襲い津軽石川を遡った。 高台の赤前小学校から対岸の遠く高浜の水柱を見て赤前地区の人々は驚愕した。そして大津波はその数分後に押し寄せその濁流は赤前地区の奥懐にある鮭ふ化場、工業高校にまで及んだ。

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