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2011/08 津波供養碑と波よけ地蔵

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 数百年規模で起こる大災害に接し千年目の悪夢でもあった東日本大災害。まさかこのような大規模災害に自分が巻き込まれる運命だったとは誰しもが思っていなかっただろう。明治29年(1896)、昭和8年(1933)の津波、そして戦後の昭和35年(1960)のチリ地震津波と三陸を襲った度重なる津波災害の語り部たちの話しを、年寄の世迷言として聞き流していた自分たちがまさか津波体験者となり今後語り部になろうとは夢にも思っていなかった。津波浸水想定区域の看板や過去の津波が押し寄せた場所を示す看板を見ても人ごとのように見過ごしていた。過去の災害の教訓、過ちを正した多くの資料や口碑があったなかで、現実には迫り来る自然の驚異に私たちは驚愕し唖然とするだけだった。

 最初の石碑はそんな先人の教訓が刻まれた津波記念碑だ(特別号①でも紹介しています)。石碑は重茂半島東側の漁村・姉吉地区にある。碑は高さ1メートルほどで上部に右からの横書きで大津波記念碑とあり、中央に縦書きで、高き住居は、児孫の和樂、想え惨禍の、大津波、此より下に、家を建てるな。とこの集落で住居を建てる際の戒めが刻まれ、その下に明治廿九年にも、昭和八年にも津、波は此処まで来て、部落は壊滅し生、存者僅かにも二人、後に四人のみ幾歳、経るとも要心何従。と津波に対する過去の惨劇と戒めを今に伝えている。裏面にはこの碑が昭和8年の津波の際に東京朝日新聞が読者から寄付を募り寄託された義援(石碑には損の字)金を各町村に分配しその残金を使って石碑建立した旨が刻まれている。 この石碑を撮影したのは津波災害の約1ヵ月後だったが、石碑の警告通り津波は石碑の10数メートル下まで駆け上がっていた。姉吉漁港に流れ込む沢は蛇行した急勾配の渓谷で津波は狭められた渓谷を一気に遡り最高41メートルの最大波を記録した。

 次の石碑は巨大な防波堤が決壊し大きな被害となった金浜地区の神峰山・江山寺山門下の石碑群の中にあった津波供養碑だ。碑は中央に三陸海嘯横死者精霊、右に明治二十九年(1896)六月十五日、左に旧五月五日夕、施主金浜若者中とある。石碑の背景は瓦礫と化した金浜地区、石碑横の野仏と塩水で枯れた植物がより一層被災後もの悲しい雰囲気を醸し出している。おそらく明治の津波でも金浜地区では多くの犠牲者が出たため地区の若者たちが石碑を建立して供養したのであろう。そして今回の震災でもやはり金浜地区では多く犠牲者を出している。

 次の石碑は前述した昭和8年の大津波災害に際して朝日新聞が読者に呼びかけて集めた義援金で建立した浄土ヶ浜の津波記念碑だ。碑は3メートルを越す大型のもので浄土ヶ浜の最深部に宮古ロータリークラブが建立したチリ地震津波の記念碑と並んであったものだ。しかしこの石碑は大津波により土台が大破し波にのまれて消失した。震災直後に浄土ヶ浜を訪れ取材した際にも確認したが、この石碑は消失しており誰もがきっと津波がさらって行ったのだろうと思っていた。

 震災から数ヶ月が経ちすっかり形状が変わってしまった通称・奥浄土ヶ浜の石浜を元通りにする工事がはじまった。その際に「沼」と呼ばれる入江の海底に石碑が沈んでいるのが発見されローダーで引き揚げられた。それが写真の寝かされた石碑だ。碑には大海嘯記念碑と横書きされ一、大地震の後には津波が来る…などの注意箇条書があり、石巻市・石井敬二郎の名がある。裏面には津波の義援金で碑が建てられた詳細が刻まれ、宮古町建立の署名がある。ちなみにその昔現在のレストハウスの位置にあった浄土ヶ浜朝日会館という休憩所も津波義援金で建設された建物だった。

 最後の石碑は田老和野地区にある野仏二体だ。この地蔵尊を模した仏を地区では波よけ地蔵として敬ってきた。画面奥の石仏は左に文政八酉(1825)十月二十六日の年代があるが手前側の石仏は時代は新しそうだが石質が荒く年代は読み取れない。  和野地区から道なりに下ると真崎の浜に出る。真崎、真崎漁港をはじめ毎年この時期には海水浴やキャンプで賑わう沼ノ浜海岸は大きく被災しており海岸線の道路は分断されたままで今後の復旧の目処は立っていない。

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