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2011/02 方言発生の根本とは何か

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 日本は47都道府県でそれぞれの県にはそれぞれの方言があり、それらをまた「コマコグワゲデ/細分化して」地域の方言となり、それもまたもっと「コマケー/微細な」集落や地区単位で分割してゆくことで宮古弁や鍬ヶ崎弁、田老弁や川井弁がある。そしてそれすらも、鍬ヶ崎なら漁師言葉を主体とした浜言葉、上町界隈で発生した遊郭言葉などに分類される。何気なく話していいる宮古弁ひとつとってもその発生や根本を探すのはまさに日本語という大きな塊の中からDNAを採取して犯人を割り出す科学捜査のようだ。まして全国に300もの諸藩があて独自の行政形態をもっていた江戸時代はもっと多くの方言があったろうし、当時諸藩では他藩と「クッツグ/接する」街道には関所を設けるなどして往来や情報に制限をかけていたから特定の地域にはもの凄い訛りが方言として色濃く残っていただろう。南部藩は盛岡藩、八戸藩、七戸藩に分かれ、現在は岩手県となっている一関が伊達家・田村家が支配する一関藩だったっからこれら各藩で独自の方言が使われていただろう。まして、北上高地の山塊で隔てられた僕たちの住んでいる閉伊や気仙地方も古い時代の言葉が刷新されないまま現在まで残り古語をベースとした独特の方言文化を創ってきたのは言うまでもない。

 言葉をはじめ流行や文化は刷新されてこそ進化する。刷新は外来文化の侵攻だがそれによって従来のものが新しく置き換えられ人々は変化により文明や進歩を実感する。また、文化の刷新により置き去りにされ次第に忘れられてゆくものもあり、これこそが文化や信仰、習わしや生活習慣の淘汰であろう。これは古い文化を次世代に伝えようとする「トソリガドー/老人たち」の意識が昔に比べ希薄になっていることと、受け継ぐ世代の生活習慣の変化によるものだろう。そんな背景から私たちのネイティブな共通語・宮古弁も外来文化の侵攻で随分と刷新され同時に「サベル/話す」人やその意味が判る人がいなくなり消滅した言葉もある。だがそれでも宮古弁の中には共通語で刷新不可能な表現や、「テッシュ/ティッシュ」などのように共通語ベースであっても宮古人の発音にとって都合のいい英語読みやアクセント、イントネーションによる聴覚的感覚が残るものもある。これらは宮古弁としての純度は極めて低いが21世紀に残され、今後も使われ続ける宮古弁であり将来はそれなりに研究される素材となるだろう。

 全く逆に侵攻される以前の時代に使われていた言葉や文化背景を遡る作業も宮古弁を探るうえで重要なファクターとなる。テレビなどの情報媒体がある現在は外部からの言葉文化の侵攻に歯止めはきかないが、交通や情報伝達が緩慢だった時代に遡ればある程度の流れが見えてくる。それは大和時代に東奥の地に朝廷の軍勢が入り込み侵略により文化が刷新されたなどという程度の逆行ではなく、私たちの先祖とされる縄文人がどこからきたのか?ということになろう。日本列島で人類が発生した歴史はないから日本人の祖先は当然ながら中国~朝鮮を経て日本に入りあたかも海がさざ波を繰り返しいつしか満潮になるように進攻と退却を繰り返しながら北へ辿りついたと考える。アムール方面から氷結した海を渡り北海道に流れ着いた民族もいたという説もあるが、人類の移動という概念から考えると食料が「ペーンコデ/少なくて」移動に季節制限のある極寒の地からの南下より、温暖な地から北へ侵攻する方が容易だろう。だから崎山貝塚の縄文人「ガドーモ/たちも」、突然この地に発生したわけではなくとてつもなく遙かな昔から何代も代替わりしながら東北の宮古の地へ「スコッツヅ/少しづつ」移住してきたのであろう。人が住めばコミュニケーションのためそこに言葉が発生し特定の地域だけに通じる方言や隠語が生まれる。そして前述したように新しい文化が入り込み言葉も刷新されてゆく。そのきっかけは大きな天候変動、稲作伝来でもあり部族間の侵略や戦争だったかも知れない。その後縄文時代を経ておおむね弥生時代には日本語のようなものがあり各地で交易があったと考えられれている。

 崎山貝塚、磯鶏蝦夷森貝塚などから出土した遺物であるアスファルト、翡翠の玉などは日本海側の新潟あたりからもたらされた交易品だと言う。縄文から弥生にかけて貨幣などはまだなかったが売り手、買い手は言葉を交わし交渉の上で取引をしたのだろう。その後、大和時代を経て平安時代には須賀君古麻比留なる閉伊の人物が、毎年宮古周辺で「メノゴコンブ/昆布など」を集荷しそれを京都の朝廷に献上していることが、当時の公文書『続日本紀』に「ノサッテ/掲載されて」いる。そこには都の「エレーサマ/役人」が言った「この者どもの言葉なはだ聞きづらい」的な記載もあることからすでに方言が形成されていたことがわかる。時代は流れ室町時代になると分派して「ホンケカマド/本家・分家」となった閉伊氏が先代の遺産相続から不仲となり室町幕府の決済を得るため何度となく都へ通い、最終的には遺言書通りに「ヤスギ/手地財産」を分配せよと判決をもらっている。秀吉の奥州仕置後、閉伊の地は南部氏の配下となり江戸時代を迎える。当初は盛岡藩の軍港・商港として宮古通を整備したがその後は宮古~盛岡を結ぶ閉伊街道も整備されず沿岸と内陸の格差は広がるばかり。藩では塩釜から北上川の水運で荷を運び宮古に配備した御用船は「ボクサルベーリ/腐るばかり」だった。そんな閉鎖された空間で古い都言葉が古語として宮古弁となり熟成してゆくのだった。そして幕末も近い江戸末期、太平洋沿岸を廻って江戸へ出る東廻り航路が拓けると宮古は多くの船が出入りする良港となり名を上げた。維新後の戊申の年には戊辰戦争で官軍・幕軍が宮古浦で艦上戦となった宮古海戦を展開した。明治期は交易の港となった宮古には関西からも多くの船が入った。荷揚げや船乗り相手の商売をする人々は外来文化に晒されその商売とその証しとして外来言葉を真似し、それが流行った。

 粋でいなせな関西弁に鍬ヶ崎の遊郭で使われた言葉を組み合わせ「オオキニ」や「オデンセ」「ネンス」などの宮古弁が生まれたのはこの時期だったのではないだろうか。

懐かしい宮古風俗辞典

こごめっこ

固形物の角や表面が破損した細かい破片や微細な粉。多くはせんべいやビスケットが割れた際に散らばる破片などを言う。

指先が油でベトベトになるというのに、袋を開けると無くなるまで手が止まらなくなるのがポテトチップス。ちょっとしたおやつに、ビールのつまみにとお手軽フードの代表格でもある。しかし、このチップス、製造段階からお店に並び消費者の手元に届くまで幾度となく流通経路の振動に晒され必ず割れてしまうのも事実。そのため開封して最初のうちは大きなチップスをつまめるが次第に粉砕されたものになり、最後には袋の底に残った「コゴメッコ」になってしまう。お行儀よくそんな「コゴメッコ」は食べずに捨てればいいのだが、「テッパス/手づかみ」で食べるスタイルのチップスに行儀もを問うのはヤボな訳で、ついつい、最後は「コゴメッコ」の入った袋を顔の上に掲げあんぐりと「オオグヅ/大口」を開けて袋の底を叩いたりする。そんな時に限って「コゴメッコ」は口に入らず「マナグ/眼」に入ったり首からシャツの中に入って「カイカイー/湿疹」になったりする。けれど、やっぱりポテトチップスは止められませんな。

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