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2010/12 田老地区の神社や墓所の石碑順禮

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 先日、千徳小学校五年生の講師で招かれ宮古弁や神社の説明をした。その中で宮古に神社がいくつあるのか?という質問があり、残念ながら不明ですと答えた。子供たちがいう神社とはどんなものか?鳥居の有無や社の規模なのか、それとも単に祀られた御神体の数なのか…。ならば各家の神棚まで神社になるわけでとても数など確定できない。しかし、結局は神様というものは最終的に山や水、太陽だったりして人間が自然を崇める気持ちのあらわれであり数よりその目的が重要なのですよ…などと都合良く説明して切り抜けた。

 人は己の成功やそれによって得られた富を神仏の御利益にこじつけ、往々にして己の努力も神仏を信仰したおかげだと解釈する。そして信仰によって築いた富が末代まで永遠に受け継がれ栄えるものと都合よく解釈する。これだけ大切に崇めているのだなんらかの恩恵があってしかるべきだと考える。人の心など大なり小なりいつだって下心があるわけで神仏にも信仰と引き替えに己の永遠の安泰を願ってしまう。神社などはその最たるもので経済的に裕福になるとその冨を守る布石として神社を勧請する。それには大きな費用がかかるのだが、それも集落においてのステイタスと都合のよい御利益という信仰心で補う。しかし、いくら縁起のよい神社であれ所詮代替わりすればその思想も変わり信仰も廃れるのが常だ。先代が勧請した神社も次の世代にとってはお荷物であり、毎年の縁日だって何かと出費もかさむ。かと言ってぞんざいに扱えば祟りも怖い、そんな廃棄もできなくなってしまった信仰媒体や神社は家にも置けず結局は地区の鎮守の社の周りに集まってくるのが常だ。八百万の神というが神様なんて必要なときにだけいてもらい通常はできたらいない方が人々は生活しやすいのである。

 さて、最初の写真は国道45号線から宮古北高校へ向かう県道117号線との交差点付近のバス停向かいにある神社の石宮だ。社は高さ1メートルほどで大振りな屋根の前面庇には波のような飾り彫りがある。社側面には文久三年(1863)三月廿五日、願主・小林□随の文字がある。社にはおそらく鉄製の扉があったと思うがすでに朽ち、内部には御神体らしきものはなく落ち葉がたまっていた。石宮前には大正十一年の山神塔があるがだからと言ってこの社が山神社であるとは考えられない。社の形態が重茂半島黒崎神社などにある石宮に似ておりおそらく恵比寿や龍神などの海に関係したものが祀られていたと考えられる。

 次の写真は田老青砂里地区の出羽神社にある魚籃観音だ。観音像は高さ1.5メートルほどの石仏で両手で魚を抱いて蓮華座に立った意匠だ。台座裏には昭和五十二年(1977)四月八日建立、岩手県下閉伊郡田老町川向、大西フク・六十五歳、愛知県岡崎市上佐々木町・中澤石材店とある。石仏として大きさ的にもバランスが良く観音の衣が風に流れるような作りはなかなかのものだ。なお、出羽神社境内横には明治期の琴平山、昭和初期の牛頭供養塔があった。

 次の写真は野原地区の津波避難路を登った先にある新墓所内にある津波供養の石碑だ。碑は上部に海嘯死者、腹子氏之碑とあり右側面に明治二十九年(1896)、左側面に五月五日とあり、台座に松太郎、ハツエ、エイ、子供、子供とある。おそらく明治29年の三陸大津波で一家もろとも無くなった家族の供養碑と思われるが津波来襲は6月15日だから石碑にある建立日付は津波被害の数年後のものだろう。

 最後の写真は腹子氏の津波供養碑がある墓所内にあるもので、墓石背面に英語が彫られた変わった墓石だ。この墓の前面には霊塔とあり二段目の台座に筆記体(横書き)で英語の名があり、裏面に赤のペンキが入れられた英文字とカナルビがある。それによると船長、BURNETT・バァネット、YUKIKO・ユキコ(縦書き)、GREEN・グリーン、1978(横書き)とある。船長のバーネット氏とユキコという女性はおそらく夫婦だと思われる。推測ではあるが外国人を夫に持った田老地区の女性がその家族の死去にともない墓碑を建立した祭、夫の名に合わせて英語で名前を入れたのだろう。現在、墓所は参拝者はなく荒れて朽ちた状態でありこの墓碑の詳しい経緯については不明だ。

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