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2010/12 喫茶店デビューは中学2年

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 札幌で冬季オリンピックが開催された昭和47年頃の話だ。僕はろくに「ケッコ/陰毛」も生えそろわないくせにやたらと大人気分に浸りたい中学二年生だった。その頃、音楽と言えばテレビから流れる歌謡曲しか知らないオクテだった僕に、友人が「お前ジャズって「ワガッテッカ/知ってるか」ジャズはいいぞ」と自慢した。友人は最近ジャズのいいレコードを買ったからお前にも聴かせてやるというのだ。当時の僕はジャズの「ジャ」の字も知らなウブな少年だったがジャズという心くすぐる怪しい響きに大人の「カマリ/匂い」を感じとった。友人が買ったレコードはなんと、今思えば中学生が買うにはかなりマセた、ビル・エバンズトリオのピアノジャズだった。友人はそれをコロンビアのポータブルプレーヤーで鳴らして「ナアド?イイベェ?/どうだ、いいだろう」と自慢げに語るのだった。LPレコードが本体からはみ出すようなプレーヤーのスピーカーからは今まで聴いたことのないような、悪く言えば適当に弾いているとしか思えないような音楽が流れ、僕はいいも悪いもまったく意味が判らなかった。ジャケットも帯以外はほとんどが英語で曲の意味も「ワゲツガホーデー/わけが判らない」。友人曰く、こんな「チャッチィ/ちゃちな」機械ではジャズの良さもわからない、ジャズはもっと高級なステレオで聴くもんなんだと断言した。じゃぁどうすればいいんだ?と聞くと「キッサテンサ、イグベス/喫茶店に行こうよ」と言うのだ。友人が言う喫茶店には一般家庭にはないような舶来のステレオがあってコーヒー代250円を払えば「ナンツカン/何時間」いてもそれ以上の金はかからないしレコード聴き放題だというのだ。

 「ホンダラバ/それじゃぁ」と、翌日、自転車で「ミヤゴマヅ/商店街」に繰り出した。しかし、高級ステレオでジャズを聴かせる喫茶店がどこなのかそれがわからない。仕方なく喫茶店体験の練習を兼ねて手始めに駅前の中華食堂となりのエルザ(当時の手芸とファンシーの店)の二階にあるトレビ(喫茶店)という店に入った。もちろん喫茶店に入るのはこれが初めてだし、あの当時おそらく学校でも出入禁止になっていたろう。

 スターのブロマイドなんかも売っていたエルザの細い階段を上がり、入口近くの小さなテーブルに座るとウエイトレスが小さなコップに入った水と灰皿を持ってきた。友人はコーヒーを注文すると、すかさずポケットからハイライトを出して店名が印刷されたマッチで火を点けた。「オラサモケロ/オレにもくれ」と僕も一本せがみ苦い煙を吐き出しながら二人で大人気分に浸った。そして店内の音楽を注意深く聞いてみるとそれは俗に言う軽音楽でありジャズではなかった。

 翌週は多少なりとも情報があった。築地にミントンハウス(ジャズ喫茶)という店がありそこにはジャズのレコードが何百枚もあって凄いステレオで鳴らしているらしいというのだ。僕は従兄弟が「キューダデ/旧館・愛宕」にいたからその店の存在はなんとなく知っていた。熱帯魚屋の横の「アウェーコ/路地」を入った奥にあり、どうみても中学生が入れる雰囲気の店ではなかった。あんな未開の地に足を踏み入れるなんて考えもしなかった。しかし、それも一人ならともかく友人と一緒なら冒険として「オモッツェー/面白い」し、怖い物見たさという興味もある。そしてそこにはきっと今まで知らなかった大人の世界があるような気がしたのだ。

 放課後またしても自転車で「ミヤゴマヅ」へ出ると築地へ向かった。旅館、食堂、タクシー、果物屋…、そして熱帯魚屋。そこに自転車を止めて「クラスマ/暗がり」の「アウェーコ」の先にあるドアを押して入ってみた。そこは窓がない細長い空間で煙草とコーヒーが「カンマザッタ/混じった」今まで「カマッタゴドノネー/かいだことのない」独特の「カマリ」がして、かなりの大音量でお目当てのジャズが流れていた。カウンターメインの店だったので「ショースガッタガ/恥ずかしかったが」カウンターに腰掛けアイスコーヒー300円を注文した。カウンターの正面がレコードストッカーになっていてざっと見て500枚以上はある感じだった。見たこともない高そうな大きなスピーカーからはベースの音が強烈な重低音となって少年たちの「スタッパラ/下腹」に響いた。僕たちはカウンターだったせいもあるがその異空間にあっけにとられ、いつもの如く胸のポケットに忍ばせた大人気分の象徴でもある煙草を吸うのも忘れていた。あっと言う間に時間が流れアイスコーヒーをお代わりして2時間以上もジャズを聴いて自分なりになんとなく耳が肥えた気がして帰路についた。

 今でも印象に残っているこの異空間・ミントンハウス、それは当時の宮古ジャズクラブの総本部だった。昭和42年に発足した同クラブは、当初、末広町のエビアン(喫茶店)で30数回にも及ぶジャズのレコードコンサートを行い、その後宮古が生んだジャズピアニスト・故・本田竹広ジャズライブをはじめ、大友義雄、渡辺貞夫らのコンサートも主催している。そして昭和47年、その拠点として築地にジャズ喫茶・ミントンハウスを開店したのだった。

 喫茶店が音楽文化をリードしていた時代、思春期の少年だった僕らの心にも微量ながらその風が吹き込んでいた。僕らの音楽はもう学校の音楽や歌謡曲ではなく、別のものへと向かっていた。そしてあの頃の喫茶店のヤニで煤けた店内には「ワゲーモン/若者」の青春とささやかな夢が刻み込まれていたのであった。

 で、その後の僕はというと、ジャズやロックよりも生殖のことばかりに熱中し、ひたすら女体の神秘にのめり込み悶々とする日々を送るのであった。

懐かしい宮古風俗辞典

もきめがす

平常心を失ってイライラしたり、短気からかんしゃくを起こして周囲にあたり散らすこと。

「モキメガス」「モキモキヅー」などの「モキ」はおそらく「物の怪」という言葉が「モッケ→モッキ→モキ」と変化したのだと思われます。きっと物事が予定通りいかず不満や焦りがつのり、さりとて事が好転する術もなく己の運の悪さに腹を立て、辺り構わず荒れ狂う状態が「物の怪」にとり憑かれた状態に見えるのでしょうか。ちなみに似たような宮古弁に「モッケニナル」があって、こちらもある事に打ち込み異常にムキになる様を現します。 近道をしようと回り込んだ道に停車車両がいて足止めを食うとか、106街道を50㎞で走る車のために後ろ数十台が数珠繋ぎになってしまうとか、納豆のタレのナイロン袋がうまく切れなくてイライラするとか、私たちは些細な失敗や不満ですぐに「モキメガステ」いまいます。こんなことではいつの日か納豆のタレの袋の切り口に文句を言いながら「アダッテ/脳梗塞」しまうかも知れません。超安全運転につきあうのも人生、袋をうまく開封出来ないのも人生、待ち人が約束の時間に遅れるのもまた人生。事ある事に「モキモキ」してもはじまりません、緩く生きようじゃありませんか。

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