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2010/10 鍬ヶ崎のお寺周辺の石碑順禮

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 蛸ノ浜を見下ろせる心公院の墓所には親戚や友人の墓がある。お盆で墓参りに訪れることはないのだが職業柄ちょくちょく墓所内を散策する。先日は亡くなった友人の墓参りをかねて墓所内を散策したところ、蛸ノ浜に向かう道沿いに立て札付きの墓があった。立て札は心公院が立てたもので「このお墓に心当たりがある方は心公院まで」というものだった。墓石の高さは50センチほどで平らな前面の円筒型で先端に向かってとがった意匠だ。材質は花崗岩で高さといい形といい近年のものではなさそうだ。しかし、花崗岩ゆえの欠点でもあるのだが石英質のため刻まれた文字の凹凸が判断しにくく順光状態では判読が難しい。表面を指でなぞっても正しく判読できそうになかったため、これは拓本をとるしかあるまいと判断した。

 翌日は朝から陽射しが照りつけ9月であることが信じられないほどの真夏日で、とても拓本日和ではなかったが久々に拓本セットを車に積んで再び心公院墓所へ向かった。早速墓に画仙紙を固定し濡れ雑巾で水を含ませ圧着するも、気温は30度を超えており、墓石も熱く湿らせた画仙紙はみるみる乾くではないか。いつぞやの真冬に田代で梵字の拓本を取った時は雑巾と画仙紙が凍りついて苦労したこともあった。拓本取り作業は真冬と真夏そして蚊が多い季節と風の強い季節はいけないな…と額の汗を拭いながら思った。そんな苦労をしながら取った拓本を撮影して調整したのが最初の写真だ。中央には天保九年(1838)正月十日、左に俗名・千代とある。このことからこの石碑が女性の墓であることは確かだが、通常戒名を刻む位置に命日の年号が表記されており、この仏には戒名が与えられなかったと思われる。おそらく身寄りももなく亡くなった仏を誰かが供養はしたものの、戒名までは付けられず、また、その墓標もどこかの敷地にはばかるように置かれたままその真意を伝える術を失った墓なのであろう。憶測ではあるが天保期の鍬ヶ崎にあった遊郭に囲われていた御女郎の墓なのかも知れない。

 次の石碑も心公院にある。石碑は心公院持ちの神社がある寺院真裏にある。中央に巌鷲山大権現、早池峰山大権現、右に文政六(1823)星集癸未(みずのとひつじ)、左に八月大吉祥日とある。巌鷲山とは岩手山のことで、一説によると春の残雪の頃、山頂から山腹にかけて残った残雪が大きく翼を広げた鷲に見えることから巌鷲山と呼ばれるようになったという。台座には十数名の連名があるが判読はできない。神社の横には心公院歴代住職の墓標が三基並んでいる。

 心公院墓所から北へ続く小径は旧浜街道で宮古以北にある沿岸の部落を経由しながら田野畑村まで続いていた。この街道は現在国道や旧国道に上書きされながらも現存する。この道を通って江戸末期の三閉伊一揆は宮古に入っており、一揆一行は当時の心公院を宿として一泊している。

 次の石碑は鍬ヶ崎仲町から七滝の沢を登った梅翁寺周辺にある石碑だ。往時この周辺は夏保峠として宮古と鍬ヶ崎の分岐点であったが、大正期に光岸地の切り通しが開通しすると機能を失った。そして昭和40年代半ばに国道45号線が開削され、旧道と梅翁寺を結ぶ道は暗渠(あんきょう)となり上を国道が通り旧道と交差している。七滝の沢は中里団地付近を水源とし梅翁寺の横を通り鍬ヶ崎へ流れる。石碑は暗渠の下に並んでいる三基のうちの最も古いものだ。中央に奉庚申供養塔、右に元禄十五年(1702)壬、仰願現世安穏子孫繁栄、左に十一月十三日、殊後生功力引導平安とある。(宮古市の碑・改訂版より)碑文の彫りは浅く見た目では判読が難しい。鍬ヶ崎仲町にある銭湯、七滝湯は開業当時この七滝の沢から取水していたためそれを由来に七滝湯の看板となったという。

 最後の石碑は前述の石碑の隣にある石碑だ。碑は昭和初期のもので故澤内平五郎君碑とあり、台座に昭和六年(1931)十一月吉日の年号と、昭友会と彫られ斉籐利七、中西亀太郎、川目由松、盛田廣治、小笠原丞次郎など20数名の連名がある。澤内平五郎という人についての詳細は不明だが昭和6年には満州事変が勃発しておりこれに関係する戦没者だったのかも知れない。いずれにせよこれらの碑は夏保峠にあったものを習合したものであろう。

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