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2010/09 応永石塔婆と腹帯石碑順禮

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 今年の夏は例年になく猛暑が続いた。それでもユニークな石碑があると知るとどうしてもこの目で見たくなるから、もう取材ではなくマニアの域に到達しているかも知れない。そんな訳で今月は汗を拭いながら腹帯周辺の石碑を巡ってみた。

 腹帯は茂市の袰地と川井の三ツ石の間にある山間の集落で大きく湾曲した閉伊川に沿って僅かな平地に民家が点在する。国道106号沿いには石を立てたり円形に並べた腹帯配石遺構群があり縄文時代から集落として存在した痕跡が残っている。中世の頃には初代閉伊氏発端と関係がある腹帯氏という一族がこの地を治め、閉伊川が大きく回り込む大淵が囲む小高い山の上に舘を築いていたとされる。時代が下り藩政時代には腹帯村として存在したが明治22年(1889)茂市村と合併、昭和30年(1955)には茂市村と刈屋村が合併し新里村となり、平成17年の大合併で宮古市となった。腹帯水神地区には東北電力の水力発電所施設がある。この発電所は昭和12年(1937)に建設された。この施設の発電システムは川井村の堰堤の取水口から、腹帯の大沢ダムまでの約9キロが水を通す隧道 (ずいどう)で繋がり、発電所までの落差約90メートルの水圧で水車を回し、常時4200キロワット、最大11100キロワットの発電が可能だ。しかし、発電所建設の工事は悪条件を極め、難航し幾多の尊い命が失われ、発電所の一画にはその慰霊碑が建立されている。施設は昭和50年(1975)から無人化され、現在は東北電力宮古技術センター制御所が監視制御を行っている。

 さて、そんな腹帯での石碑順禮は丘陵地を走る国道から閉伊川方面へ折れた小径の脇に立つ虫供養塔からだ。中央上部に梵字・キリク、神虫供養塔、右に安政四丁巳年(1857・ひのとみ)、左に七月吉祥日、慶寿代とあり、右下に石工・亀治とある。例によって亀治の「亀」は図案化したロゴマークでこの石碑では「治」が使われている。石碑は農害虫の発生を防ぐ虫送りを意味するのか、養蚕にまつわるお蚕の意味なのかは判らない。石碑がある小径沿いには旧家・佐々木家があり、この家は代々修験者で、大日如来像、役の行者像などが伝えられている。また宮古市愛宕の愛宕神社や石勝寺(廃寺)とも関係がる。

 次の石碑は前述の腹帯氏が舘としていた山に祀られる八幡神社にある山神の石碑だ。中央には山神塔、右に元治元年申子(1864・きのえね)、左に極月八日、学善院優寿、石工千徳、金蔵とあり下に施主、袰岩兎毛、舘野半次郎とあり、左源太、石松、左蒸、直吉など30数名の連名がある。この石碑は山神であり年代も新しくさほど珍しいものではないが、センターが膨らんだ凹凸に絶妙な深さで文字が彫られており、形状ロケットようでかなりアバンギャルドだ。また、建立に関係した山伏の名前から前述の神虫供養塔の慶寿代という山伏らしき名前と関連性がありそうで、この石碑を彫った千徳の金蔵という職人も石工亀治と関係がありそうな気配を感じる。

 次の石碑は大淵の架かる腹帯下の橋の袂にある鞭牛の道供養碑だ。中央には道供養橋野村林宗六世、右に宝暦八寅年(1758)、施主・勘治、左に三月二十七日、人足、村中とあり、下部に横書きで平成6年復刻・新里鞭牛会とある。腹帯大淵は閉伊街道でも難所中の難所とされた場所でこの道路開削と周辺道路普請が閉伊街道における鞭牛の最初の仕事だったとされる。石碑は下部の碑文にあるように近年復刻したもので当時のものではない。

 最後の石碑は釈尊を表す梵字を6個の地蔵菩薩の梵字で囲んだ珍しい形態の石塔婆で年号は宮古下閉伊ではかなり古い室町時代の応永年間のものだ。碑は上部に梵字、右に正法眼蔵、左に涅槃妙心、中央に応永第三丙子(1396・ひのえね)七月廿一日とある。石碑の材質は花崗岩でかなり風化しており梵字部分は手触りで何となくわかるが、碑文の文字部分は拓本でないと判読できない。宮古市文化財となっており現地には拓本を転写した説明プレートがある。

 梵字を図案化した室町時代の石碑があることから、この地には曹洞宗などが入る以前から天台などの密教が流布していたと思われ、鍬ヶ崎の暦応の碑と同様、この石碑の存在は腹帯地区に修験による密教の大きな拠点があった証拠でもある。

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