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2010/08 樫内石碑順禮と松原左右

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 宮城県塩釜市から気仙沼を経て岩手県沿岸を通り青森県八戸市まで伸びる国道45号線は昭和40年代に整備された青森、岩手、宮城の沿岸地区を結ぶ主要道路だ。

 藩政時代の浜街道は宮古から田代へ出てそこから有芸へ出て浜街道なら小本へ、あるいは岩泉を経て大川、小川を通り早坂峠を越えて南部城下へ入っていた。これに対し国道45号線は旧浜街道を通らず沿岸の漁村を結ぶかたちで建設されたと考えていいだろう。今月はそんな国道45号線沿いの小さな集落樫内地区の石碑を巡ってみた。

 樫内地区は北三陸のほとんどの漁村がそうであるように、小さな入江があり、海辺まで迫った海岸段丘の平地に集落が拓けている典型的な農漁村だ。この形態は田畑を開墾しての農業、海に出ての磯漁業、森の狩猟も可能な縄文時代からの多角経営的漁村でもある。しかしながら、北三陸はヤマセなどによる冷害地帯であり稲作が安定したのは明治後期になってからだ。また、前述の浜街道から大きく離れており漁村同志は陸路より船での行き来が主であったため他地区からの情報伝達が遅いという難点があったと言えよう。

 最初の石碑は旧田老第一小学校樫内分校入口にある石碑だ。この石碑は分校が閉校となった昭和63年に地区民らが建てたもので同様の石碑が旧田老地区の閉校になった分校に建てられている。碑文は各学校により様々で樫内分校のものは中央に横書きで学窓の地とあり下に昭和63・3・23の年号があり、裏には学校の沿革として大正十一年一月、樫内分教場設置、総テ学区二十五戸、民ノ労力奉仕ニヨル。昭和三十五年五月、ブロック校舎新築。昭和六十三年三月、樫内分校閉校、卒業生三百二十九名。と記されている。

 次の石碑は樫内小学校裏手にある石宮だ。石宮はブロックで囲まれており周辺には文字は見えないが石碑状の石が散乱していることからブロック校舎が建設されるまでこのあたりが神社の敷地であり、学校建築で石宮が移動し現在の場所に鎮座したのではないかと思われる。石宮は二基あり右は正面に地神塔、左側面に清水巳之松、右側面に大正六年旧三月十五日立之とある。左の石碑は台座正面に清水久右ェ門の文字がある他側面、背面とも判読不明だ。

 次の石碑は樫内分校から50メートルほどの場所にある石碑群の中にある庚申塔だ。碑には六臂の腕に様々な武器を持った青面金剛が浮き彫りになっており、上部には円と三日月をあしらった日天、月天がある。右側面には久之丞、権介、一十良、金介ら八名の名があり、同じように左側面にも清之丞、市兵衛、覚兵衛、彦兵衛ら八名の名がある。庚申塔は庚申(かのえさる)の日に信仰を共にする者が集まり夜明かしをするものだ。庚申信仰については何度も解説しておりここでは割愛とする。庚申信仰によって組織された庚申講は持ち回りで地区の家に集まり夜明かしをしてコミュニケーションをとっていたが江戸末期には一揆などの謀反につながるとして南部藩では取り締まりをしたようだ。

 最後の石碑は旧墓所がある引導場の石碑群の中にあるものだ。碑は中央に松原左右先生之碑、右に明治二年二月一日卒、左に習学門人、摂待村、畠山長之助建立とある。この石碑に刻まれた松原左右という人物は塾などの師と思われるが詳細は不明だ。また松原左右の石碑は沢田の常安寺山門の石碑群にも存在し、明治二年の年号と樫内村の文字がある。偶然にも碑の隣には幕末から明治にかけて鍬ヶ崎にあった松原塾の塾生らが恩師・松原佐蔵に対して建てた顕彰碑がある。松原佐蔵は南部藩士で鍬ヶ崎の十分の一役場に勤めていたが、江戸末期に私塾を開設、多くの弟子が集い門下生らは鍬ヶ崎に筆塚(市文)などを建てている。松原左右と松原佐蔵について編集部では次のように推測する。

 江戸末期、鍬ヶ崎の松原塾とは無関係の私塾が樫内、あるいは田老にあり松原某が師をつとめていたが明治初年に死亡、摂待村の門人は師のふるさと樫内村に、宮古の門人は常安寺に顕彰碑を建立、その後その石碑の隣に松原佐蔵没後に松原塾の門人らが佐蔵の顕彰碑を建立した…。そのような顛末ではないか?と考えている。加えて雅号と思われるが左右という名前の読みも様々で、さゆう、そう、とこう、とかく、とにかく…など読みも難解だ。

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