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2010/07 早池峰周辺石碑順禮

提供:ミヤペディア
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 広大な面積を持つ旧川井村と合併したからには、そこに点在する石碑も散策エリアとなった。以前までは古い資料などで事前に目星をつけてピンポイントで取材していたし、田老地区、新里地区は先頃、宮古市教育委員会が刷新した『みやこの石碑(いしぶみ)』という冊子があるから散策も容易だ。しかし、川井地区となると過去に旧川井村単位で石碑を調べた冊子もなく各集落も離れて点在する。そんな状況だから石碑散策は取りあえず寺、神社、墓所、街道沿いなどから地道にあたるしかない。あとは過去に個人が調べ非売品の蔵書となっている県立図書館の資料などを閲覧するしかない。

 藩政時代の概念からすれば盛岡城下から遠くなるほど領地としての価値は低く、まして馬でも一泊かかった未開の閉伊街道の最東端であった宮古など、遠野城下ともつながった川井に比べれば辺境の地であったろう。また、曹洞宗が閉伊地方に入ってくる侵攻度合いも当然ながら宮古より川井の方が早く、その中心となったのが小国地区の大円寺であるとも言われている。とにかく合併後の宮古市は北が田老の畑、西は川井の区界だから編集部からの移動だってばかにならない。石碑順禮の取材は携帯コンロ持参でカップラーメンを食べるぐらいの覚悟が必要かも知れない。

 さて、そんな状況下、5月中旬に仕事の関係で早池峰山の麓、タイマグラを訪れた。午前中に仕事の打ち合わせを終え、久々に周辺を散策したところ早池峰山荘の芝生に記念碑を発見、早速調べてみた。石碑は石の台座におにぎり型の御影石が載ったもので中央に横書きで仰峰躍動(ぎょうほうやくどう?)とあり下に岩手県知事千田正書、第23回岩手県農村青年クラブ大会記念、昭和50年(1975)7月16日~18日とある。千田正は金ヶ崎出身で昭和38年(1963)に岩手県知事となり四期、計16年を務めた高度成長時代の岩手の顔でもあったから、古いニュース記事や任期中開催された岩手国体関係の資料を調べると写真も載っておりまさしく山のようにどっしりとしたイメージが伝わる。昭和50年代この早池峰を眺めそこに集結した青年たちを見て千田氏は『仰峰躍動』の言葉が浮かんだのであろうか。その8年後の昭和58年(1983)84歳で他界した。

 次の石碑はタイマグラ周辺を薬師の森と命名したプロジェクトの名残でもある石の彫刻だ。この彫刻のタイトルは『薬師の森のモアイ像』と命名され作者は佐藤一枝という人だ。制作されたのは平成3年(1991)だから約20年前のものだ。佐藤一枝という人はwebで調べたところ大船渡出身で昭和63年(1988)に岩手大学教育学部特別教科(美術・工芸)教育養成課を卒業している。このモアイ像は卒業の約3年後に制作されたものだろう。ホームページから推測すると佐藤さんは現在も岩手を中心に宮城、東京で創作活動を続けていると思われる。

 次の石碑は早池峰山荘の裏側にある早池峰神社里宮鳥居脇の石碑群の中にある。中央に早池峰山大権現、右に安政三年(1856)丙辰(ひのえたつ)十月吉日、石工・亀(マーク)次とある。左には大久保□□、と判読できない人名があり、下に村中とある。ロゴマークを彫り込む江戸時代の名工、亀次(治の場合もあり)の石碑や石宮、狛犬は市内にも約10基ほどあり、以前このコーナーでは年間企画として追ったこともあったが、よもやこのような場所にあったとは…と、亀次作の石碑と再会し懐かしくなった。

 最後の石碑は日を改め後日早池峰山から流れる御山川上流の滝を取材した際に撮影したものだ。碑は早池峰山門馬登り口にあり中央に早池峰之碑、裏面には早池峰山を敬愛する同志が集まり昭和47年(1972)に早池峰の会を結成したこと、同会が早池峰の自然保護、保全を続け昭和57年(1982)早池峰山が国定公園に指定されたことを記念し石碑を建立した経緯が刻まれている。碑に使用した石は早池峰山の石で下部には代表であったと思われる向井田重助をはじめ石川栄助、井上幸三らの十数名の連名があり、川井営林署長・宮坂一木(記)の署名がある。

 早池峰登山は門馬口からだとアイオン沢経由で6時間の距離だ。近い将来、編集部はここから登らねばならぬ日が来るのであろうか。

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