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2010/06 団地組は銭湯で裸の大将

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 この春、鍬ヶ崎日影町の不動園がのれんをおろし、またひとつ宮古から銭湯の灯が消えた。子供の頃から市内を転々として「カデラレダ/面倒を見てもらった」僕は「サグラチョー/桜町(通称名・現熊野町)」の「オッパヤン/おばさん」の所にいた頃に不動園のお世話になった。とは言えその不動園は熊野神社の鳥居下あたりにあった支店の第二不動園だった。その後は住む場所も頻繁に変わり「ソノタンビニ/その度」に藤原時代は松の湯、愛宕時代は友の湯と吉野湯、そして小山田時代は上の湯に通った。そして現在、僕が通った当時の銭湯は皆なくなってしまった。そんな銭湯の思い出の中から小山田・上の湯でのネタを紹介しよう。

 当時、小山田には市営住宅のあけぼの団地、堤ヶ丘団地がありたくさんの人が暮らしていた。あけぼの団地は後期に建設された水洗完備の三階建てが二棟あったが、その他は風呂のない未水洗の二階建てだった。そのためあけぼの団地の住人のほとんどは上の湯を利用し銭湯は団地の社交場でもあった。そんな団地の周りには県職官舎や一戸建てもあった。それらに住む人たちは家に風呂があるから銭湯にはこなかったが、たまに風呂釜の故障などで上の湯に来ることもあった。そんな普段は来ないはずのイレギュラーな銭湯利用が事件の発端だった。

 あの頃はテレビが娯楽の中心だったから、人気番組が終わり次の人気番組までの間に銭湯に行った。そのパターンはどこの家も同じだからその時間銭湯に行くと友だちに会えた。湯船の縁に腰掛けて先程観たテレビ番組がどうしたこうしたと語り合うのも楽しかった。そんなある日、いつもは銭湯にこない同級生のTが入ってきた。先客は僕と同級生のY、1コ上のSクンだった。「ナンダーメズラスーヤヅガイダーゾー/なんだ珍しい奴がいるぞ」と年上のSクンが言う。同級生なのに「ヤーグド/わざと」「ダレダーヤー/誰だ」とYが答える。それに合わせて「オラスラネーナ/オレは知らないな」と僕も知らばっくれる。もちろんそいつの名前も顔も知っていてたまには一緒に遊んだりもしてるのだが、団地の社交場である銭湯では別だ。一戸建てや県公舎の連中とは差があるのだ。その差はなんてことない貧富の差で、現実的にはこちらが下の立場なのに場所と人数の順応性から優位に立っているだけなのであった。都会から転校してきた子に流行らない田舎のしきたりを教えるガキ大将と同じ心境なのである。「コゴノフロハサバ、ダンチノヒトスカ、ヘーラレネーンダガ/ここの風呂には団地の住人しか入られないだぞ」Sクンが追い込みをかける。タオルを腰に回し両端を「ユッキッテ/結んで」いる出で立ちを見て「カグステンガ…/隠してんじゃないよ」とYがちゃかす。「オモチャ、モッテキテンガ…/おもちゃ持ってきやがったぞ」と僕が風呂道具をチェックする。顔見知りの同級生なのに不穏な雰囲気を感じ取ったTはそそくさと身体を洗い湯船に入ってきた。先客の僕たちが「キッツ」に腰掛けているため「スミコ/端っこ」から入り持参してきた水中モーター付きのおもちゃで遊びはじめた。「カセェ/貸せよ」とSクン。「ヤンタ/嫌だ」とT。「イイベーガ/いいだろ」とY。そんなやりとりがあって誰かがTの頭をお湯に沈めた。それを見て代わる代わるTを沈めた。「ヤメローッォ/やめろー!」とTも半分笑いながら暴れて反撃した。Tはやっと団地の連中と打ち解けたような感じだった。

 事件はその数日後に起こった。いつものように夕食を済ませテレビを見ているとTの母と名乗る人が訪ねてきた。団地の「セメケー/狭い」玄関なので同行してきたT本人と父親は入ってこなかった。聞けば数日前、上の湯に行った際、僕がTを湯船に何度も沈めたのが原因で中耳炎になったと言うのだ。談判にきたTの母親は「子供らのふざけあいも度が過ぎると困ります。厳重に注意してください!」というようなことを言ったのであろう。僕の親は「セメケー」玄関の框に並んで頭をつけてひたすら謝った。そしてT一家が帰ってから僕は親父の「ゲンコヅ/グー」を喰らい「コノ、コバガモンガ/この小馬鹿者が」と説教された。僕は泣きながら「オレベーテネー、S、Yモヤッターノンニ/オレだけじゃないSとYもやったのに」と言い訳をした。すると人のせいにするのもけしからんと服を脱がされ真っ裸にされ「オメーハ、ハーデデゲ/お前はもう出てゆけ」と外に放り出された。銭湯で粋がっていた僕は「イレデケローイレデケロー/入れてくれ入れてくれ」とただただ泣くのみだった。

 後日、SとYに聞いたところT親子が怒鳴り込んできたのは僕の家だけだったらしい。実際、僕はTと何度か喧嘩をしたことがあったし学校でも帰ってからもことあるごとに対立していた。しかしその対立はTがわざと僕だけにおもちゃを貸さないとかそんなことが原因でこちらから嫌がらせをしたことはない。銭湯でも確かに沈めてふざけたがTも半分笑いながら沈んでいた。きっと銭湯から帰って中耳炎になったTは母親に叱られ原因を問い詰められ加害者が必要だったのだろう。それなら普段から「カバスグネー/かんばしくない・嫌いな」あいつにしてしまえ、という発想で僕だったのだと思う。現場にいたSは1コ年上だし、Yは学校でもスポーツ万能で人気者だ。そんな連中をあえて敵にするより学校でもパッとしない僕が最適だったのであろう。

 今、50も過ぎて少年時代の事件をこんな風に謎解きできるが、その顛末はスケールこそ違うが南部藩士・大村治五兵のエトロフ事件にオーバーラップする。侵攻してきたロシア軍に対し負傷していたにも関わらず抜刀して突っ込んだ治五平の行為は誰が見ても戦死だったろう。エトロフの番所が破られた責任は誰のせいでもなかったが、その責任は戦死したと思われる治五平に「カツケル/罪をかぶせる」のが楽だった。死人に口なしで同行していた間宮林蔵らは口裏を合わせたに違いない。後日、ロシア側の捕虜送還で戻された治五平はおめおめと帰ったと非難され、しかも濡れ衣を着せられたまま華厳院に蟄居の身となり死んでいったのであった…。

 それにしても中耳炎で耳に黒いパットみたいなのをつける治療、最近見ませんね。

懐かしい宮古風俗辞典

はなこんび

鼻汁が乾燥して鼻穴の周りに付着した汚れ。

最近は清潔な暮らしが定着して見かけなくなりましたが、ひと昔は「アオパナ/緑色の鼻汁」を垂らした「ガギワラス/子供ら」がたくさんいたものです。何を隠そう私たちの少年時代はそんな時代でしたからマンガのギャグでも「ネプガゲ/居眠り」をしていて鼻からハナ提灯を出している絵もいっぱいあったものです。あの時代、どうしてあんなに鼻汁が出たのか今でも不思議ですが、きっと鼻をかむちり紙がなかったからなのでしょう。現在はどこの家にも箱ティッシュがあって「ゾーギン/雑巾」代わりに何でもふくし、街頭を歩いていればタダでポケットティッシュをもらえたりします。当時は出てくる鼻汁を拭うものと言えば自分の服の袖ぐらいでしたから鼻汁は空気に触れて濃度が増し提灯ができるほど粘っこくなっていたのでしょう。 「コンビ」はおそらく「コビリ」の転訛で「こびりつく」という意味だと思われます。ご飯を炊飯し釜の内側に「オネバ」「オモユ」などのデンプン質がこびりついていることがあります。これらを含めご飯釜に残った「オコゲ」などを総称して宮古弁で「コンビ」と言います。当然、二人揃っての「コンビ」とはまったく意味が違います。

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