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2010/02 田代・北の又、亀ヶ沢石碑順禮

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 仕事とは言え石碑めぐりや拓本取りなどはこの季節あまりやるものではない。特に今年のように1月早々雪が降ってしまっては山間部の石碑は春まで雪の下だ。拓本を取るにも紙を圧着するため使う水を含ませた布や、墨を打っても濡れた画仙紙が石碑に凍り付いてしまうし、何より早池峰山颪の西風で手がかじかんでまともな作業もできない。そんな例年よりちょっと寒さが厳しい今月は、昨年から取りためていた石碑の中から田代北の又・亀ヶ沢地区の石碑を紹介しよう。

 北の又・亀ヶ沢地区は田代の西に位置し亀ヶ森(1112m)山頂の亀嶽山神社の麓にある集落だ。近年は林道が整備され亀ヶ森や亀ヶ森放牧場へ行くには亀岳小学校のある君田地区から笹平、有芸方面へ向かう林道を利用することが多いため、亀ヶ沢地区から亀ヶ森へ登ることは極めて少なくなった。しかし、亀ヶ沢の地名が示す通り、亀ヶ沢には亀嶽山神社への参道が今も残り、今でも縁日にはこの道を歩いて参拝する人もいるという。地理的には宮古市野外活動センターを過ぎ、芋野地区から流れる田代川に亀ヶ沢川が合流する落合地区から、道なりに進み芦原平地区、北の又地区を経た最後の集落が亀ヶ沢地区だ。この付近は戦前あたりまで林業や炭焼で賑わい芋野、芦原平、亀ヶ沢、大鰐谷、笹平、北の又を含む落合地区には40戸ほどの民家があり明治34年(1901)には亀岳尋常小学校の出張所が設置されたが、戦後には林業衰退とともに住民も減り、現在は北の又付近に集落が残るだけとなった。ちなみに宮古駅発の路線バス田代行の終点であり方向変換する場所が元落合分校だ。

 田代はその昔、田代村として行政取扱区を田老村とした時期もあったようだが、明治22年(1889)山口村の枝村となった。中世の時代には田代を統治し地名発祥の発端でもある田代氏(田代安芸守)の居館があり後の南部藩家老桜庭氏と血縁関係があったとされる。その後江戸末期には大鰐谷と北の又を隔てる山塊に北の又銅山があった。これらは造幣倉、虎倉、獅子倉と呼ばれの幕末から維新後の明治初期まで採掘が行われたが運搬の便が悪く閉坑となった。坑道の入口跡は塞がれているが現在も北の又地区の亀ヶ沢川をはさんだ山の中腹にある。

 最初の石碑は北の又地区の馬頭観音だ。石碑中央に達筆な草書で馬頭観世音とあり、右に明治十二年(1879)四月廿日、左に施主、亀沢(亀ヶ沢と思われる)卯之松、亀沢金蔵、亀沢岩蔵の連名がある。次の石碑は前述の馬頭観音のある石碑群の中にある近年のもので、やはり牛馬の供養塔だ。石碑は中央に牛霊塔、右に平成元己巳(つちのとみ)年、左に御縁日旧四月二十日とある。戦後間もない昭和21年(1946)頃、田代地区には乳牛64頭、馬31頭が登録されている。しかしながらやはり交通の便の悪さから乳を運搬できず、乳牛からの搾乳はされておらずほとんどが木炭運搬用だったという。

 現在の亀ヶ森は大規模な放牧場となっているが明治時代末期から田代、田老、刈屋、茂市各村が国から共同借用し放牧地としていた。当時は毎年6月初旬には馬上げと称して亀ヶ森をはじめ数カ所あった共同牧場に牛馬を上げ秋の彼岸まで放牧していた。牛馬は運搬交通の便を補い田畑の堆肥を作る農家にとって重要なパートナーだったのである。そんな牛馬に対する素朴な信仰が馬頭観音や牛霊塔であろう。

 次の石碑は北の又と亀ヶ沢の中間の道路沿いにある念仏講の石碑だ。中央には南無釈迦牟尼佛、右に明治二十二年(1889)、左に四月八日、講中とある。次の石碑も地区の念仏講によって建てられたものでやはり北の又と亀ヶ沢を結ぶ道路沿いにある。石碑は中央に南無阿弥陀佛、右に昭和二卯年、左に北の又講中とある。

 田代には天正年間に花原市洞沢山・華厳院六世、三叟義門和尚が開祖となって開山したと伝えられる明白山・久昌寺と、明治13年(1880)に説教所として開設した眞宗大谷派・紫雲山・永光寺の二カ所の寺がある。永光寺は説教所だった頃に熱心に布教活動を行い明治期には信者を増やし、後に京都本願寺より永光寺の寺号を許されている。おそらくその時代、曹洞宗の久昌寺檀家存続等の問題があったと思われるが今となっては無言の石碑が路傍に佇むだけだ。里に下った民間信仰において宗派などさほど関係なのである。

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