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2009/11 昭和の歴史を語る石碑巡禮

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 今月は石碑散策の基本に戻って石碑そのものや刻まれた文字はさほど珍しくもないのだが、その経緯や場所が意外と知られていない、あるいは忘れ去られてしまったであろう石碑を巡ってみた。

 まず最初に訪れたのは藤原比古神社だ。この神社は高台にあり社は宮古湾口の東を向いている。社殿は湾の対岸の宮古における漁業と岬信仰の本山でもある黒崎神社のある岬とほぼ直線上に並んで鎮座している。そんな経緯から本殿境内の右側に参詣した人が黒崎神社も拝礼できるよう尾崎神社拝礼塔という石碑がある。尾崎とは黒崎神社の別称で御崎とも書き古くから漁師たちに「おさき様」の愛称で呼ばれてきた。 岬信仰は高い山などの目標物が見えなくなるぎりぎりまで沖へ出て操業し港へ戻る際に最初に確認できる岬に信仰媒体を置くことで、湾から出たり入ったりする目印でもあった。(詳しくは本誌五月号特集・岬めぐり参照)

 藤原比古神社は空襲による戦災や、台風などの災害で何度も壊滅し復興してきた地区だ。神社も何度となく災害に遭い改修されてきたが、戦後の昭和30年代人家の密集と都市開発により、宮古市第十地割字藤原六十五番(現藤原二丁目付近)にあった神社を昭和36年(1961)現在の高台に遷宮した。これは災害時の地区民の避難場所をかねて造成されたもので藤原地区と宮古湾が見下ろせる西側に社殿が置かれ現在に至る。比古神社の伝説によると中世の時代に宮古を統治していた閉伊基朝の妻・音羽が愛した藤の花に関係する逸話や、高貴な人物を火葬しその場所に神社を建立したなどの説があるが、真意のほどは定かでない。

 次の石碑は築地の背後にある愛宕神社本殿裏の家富稲荷石碑群にある山神の石碑だ。石碑は三角形の花崗岩で右に昭和九年(1934)六月十二日、左に抗夫一同とある。この石碑は市内でもよく見かける山神の石碑だからさほど珍しくもないのだが、気になるのは石碑左の抗夫一同の文字だ。

 愛宕に住む古老らの話によるとこの石碑は狩猟や鉱山などに関係したものではなく、大正時代から昭和初期にかけて愛宕にあった石切場の抗夫たちが建立したものだという。石切場は現在の愛宕小学校裏付近でここから切り出した石は明治期から閉伊川左岸埋立開発に尽力した元代議士・篠民三(1843~1910)が行った工事にも使われたと思われる。大正9年(1920)に合併した宮古町と鍬ヶ崎町は両町をつなぐ築地の埋立を都市開発の起点であった。

 石碑がある愛宕神社裏は中里団地へ登る道路脇で江戸末期の般若供養塔や、石宮数基がありここが愛宕神社の原型であり、江戸期には廃寺となった石勝寺に関係する信仰媒体であったと考えられる。

 次の石碑は国道45号線から中里団地に登る交差点にある挿鍬山梅翁寺本殿裏にある石碑群だ。この石碑群は遭難で溺死した乗組員や船を供養するために建てられたと考えられ5基のうち3基には物故者の名前や船名がある。その中から今回撮影したのは海難溺死者を供養するため建立したものと思われる、南無釈迦牟尼佛と刻まれた石碑で右に昭和十年(1935)旧五月八日、左に袰岩伴治、同さのとある。溺死供養の石碑は右の石碑から昭和十年、船頭・中村與三郎、久坂権七、金子末太郎、荒谷儀三郎、澤内七兵衛、伊藤正一、川部徳三郎、坂下榮太郎、奥堂喜之丞、遠藤岩蔵、次の石碑が昭和十四年(1939)四月十一日、遠藤久兵衛、遠藤金太郎、舘洞興助、次の石碑が昭和三十一年(1956)十二月、第十六漁吉丸各霊塔、施主二代小笠原孝三とある。

 最後の石碑は鍬ヶ崎九峰山心公院北墓所にある慰霊塔だ。碑は上部に横書きで海難事故物故者、中央に供養塔、右に昭和三十八年(1963)三月三十日建立、左に誠友会とある。石碑裏には昭和20年・1・13宮城船籍・第三岩越丸・3名の海難事故から、昭和52年・12・7宮古船籍第31漁吉丸1名の事故まで73件の事故が刻まれている。ちなみに誠友会という組織の詳細は判らないが石碑前に会長らの名を刻んだ小碑がありそれによると初代会長は岩間泉となっている。また、漁吉丸の名は梅翁寺の溺死者供養塔にもあり海での仕事が死と隣り合わせである現実を知らされる。

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