Miyape ban 01.jpg

2008/11 金運向上?金浜稲荷神社周辺散策

提供:ミヤペディア
移動: 案内, 検索

 最近は宝くじの当選金も億単位が当たり前で、その金額も2億、3億ではちっとも目新しく感じなくなった。その割に億単位の現金を目の当たりにした経験がある人なんてほんの一握りで、億などという金額は欲深でそのくせ小心者の庶民の財布には入りきらない金額であることは今も昔も変わらない。それでも、ほんの一握りの幸運を掴むべく人は宝くじを買う。宝くじが当たったら、ああしてこうして…と夢も膨らむことから誰が名付けたか「ドリームジャンボ」などと銘打って、宝くじは何の疑いもなく年の瀬の恒例になり、中には膨大な枚数を購入する夢にこじつけた欲の亡者もいる。一度は誰もが熱中する宝くじだが、そんな格率の低い投資をするなら、自分の老後の貯金とまでは言わないが、某国で貧困にあえぐ子どもたちにでもくれてやった方がまだお金らしい使われ方のような気がする。そしてギャンブルとはその道をもっと研究をし研ぎ澄ませた感性で勝負するものだと思う。歩いていて隕石が当たるような幸運を求めるなら宝くじ購入は1枚で充分なのだ。

 何年も前の話になるが金浜の稲荷神社にお参りしたら宝くじが当たったという噂がまことしやかに流れた時期があった。この噂は宝くじに当たったのが何処の誰なのかも明らかにされず、お参りして願をかければ宝くじが当たるという神社の御利益のみが先行したもので、ある種の都市伝説ともいえる。この噂は神社が商売繁盛の稲荷社であり、神社のある地区名が金浜とこれまた文字的に縁起もよかったため、誰が確かめたわけではないが宝くじの専門誌にまで掲載されたという逸話まで語られた。今月はそんな宝くじファンにとって外されない金浜稲荷神社周辺について巡ってみた。

 最初の石碑は神社の杜に登るための石段下にある石碑から見てゆこう。石碑は中央に石段供養塔、右に明治8年(1875)乙亥(きのとい)、左に四月、下部に施主、當(当)村、大槌要助他7名の連名、世話人、金沢□□他5名の連名がある。

 石段を登りきると石造りの鳥居がある。この鳥居は当神社の平成大改修に伴って建立されたもので、向かって右側の柱後部に平成十四年三月吉日建立、共有財産管理委員会、稲荷神社氏子一同、左側の柱後部に、敬宮、愛子内親王生誕記念、平成十三年十二月一日降誕とある。

 平成の神社改修の詳細は神社境内に建立された石碑に詳細がありそれによると平成2年12月鳥居改修、同3年9月石段改修、同8年8月表裏参道補修、本殿拝殿敷地造成、本殿高台移転、同年9月本殿改修塀新築、拝殿改築、同12月命婦社建立などが行われている。ちなみに命婦社とは、本殿移築の際に床下から発見された狐のミイラを御神体とした社で、命婦とは稲荷社に使役される霊獣(狐)の別称で、稲荷神社の下にあったことから手厚く葬られ祀られたものだという。

 社殿は平成の改修により、新たに裏山を造成した高台に移転し旧敷地には祭礼の際に使われる長床になっており軒には半鐘が吊り下げられている。半鐘には文字があり読んでみると、納奉(奉納)観世音、寛政二年(1790)庚戌(かのえいぬ)七月十八日、金濱(浜)村、願主、弥五郎、施主、大樹院、他、惣兵衛、重蔵、甚助、喜太郎、与□太、別當(当)、喜圓坊、買入、利兵衛と読める。金浜村は文書により「兼浜」とも書かれることもあり、何かを兼ねる意味もある。例えば磯鶏の黄金浜も「小兼浜」と考えれば当時藤原須賀を利用していた鍬ヶ崎村と飛鳥田を持ち浜としていた磯鶏村がお互い利用できるどちらの権利も「兼ねる」という意味が見えてくる。しかし「兼ね」では漢字の表記が難しく文字的縁起もかねて「金」や「黄金」に変換されたと考えられる。

 本殿の左横には命婦社を含め2社が祀られており、その後ろに石の卒塔婆が2基ある。左側の石碑はかなり風化と苔があり読みとりは難しいが指でなぞると、為、頁栄□禅定尼墓とある。左の石碑は上部に「心」の文字があり空風火水地の文字から今で言う五輪塔のような意味で左の墓に埋葬された女性の追善供養のために建てられたものだろう。

 この他金浜稲荷神社には推定樹齢約200年はあると思われるカヤの巨木、その下には江戸末期の慶應二(1866)に奉納された手洗鉢などがある。

 これからの大型宝くじ販売のシーズンには多くの参拝があると思われる金浜稲荷神社だが、神社参拝は里の石段から神社の杜に入り鳥居を潜って柏手を打つのが参詣の本筋なわけで、神社脇の取り付け道路から車で境内に入り楽して拝んでいては御利益もないだろう。忙しいからとコンビニ感覚で拝んでは神社の効果も半減する。どんなに賽銭をはずんでも楽して幸運はつかめない。神様もそう言うだろう。

表示
個人用ツール