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2008/08 あの頃の夏休みと藤原須賀

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 この季節になると賑やかになるのが市内各地の海水浴場だ。近年は市町村合併で奥深い森林自然も多くなった宮古市だがやはり基本は海の町であり、ひと昔前の「ワラスガドー/子どもたち」は夏休みになると背中の皮が「ナンメーモ/何枚も」剥けて小麦色を通りこし、夏休みが終わる頃にはどこぞの国の人のような黒さになっていた。そんな昭和30年~40年代当時、市民に最も愛された海水浴場は藤原須賀だ。藤原須賀は閉伊川が運ぶ土砂が堆積した約1キロほどの「コマケー/細かい」砂の海岸で、須賀の途中からは松原が磯鶏まで続いている風光明媚な海岸だった。厳密には藤原須賀は現在の藤原公葬地付近の「イッサキパナ/石崎(鼻)」までで、その向こうが「ソゲースカ/磯鶏須賀」であり波も若干高かった。須賀の最終地点にある岩場は丁度いい飛び込み場であり、誰が名付けたでもなく「イズバンイワ/一番岩」と呼ばれ親しまれた。しかし「イズバンイワ」の次の「二番岩」「三番岩」に関しては時代によって諸説あり、「イズバンイワ」を越えた猫の額ほどの砂浜の向こうにある岩を「二番岩」として、隣の「黄金浜」を経て「とど浜」へ至る岩を「三番岩」とする説と「ソゲースカ」と「黄金浜」の間の岩場全部を「マルコデ/ひっくるめて」「イズバンイワ」とする説があった。どうでもいいことなのだが、当時の学校ではそんなささいなことで「トックミエー/掴み合い」のケンカになることもあった。ちなみに、蛸の浜にも、「オナゴワラス/女児」や子供が「トッツグ/取りつく」「イズバンズマ/一番島」、少し沖合の「ニバンズマ/二番島」、沖合で上級者向けの「サンバンズマ/三番島」と名付けられた小島があった。また、内陸のどこぞの学校の臨海学校施設があった「黄金浜」は金や黄金とはまったく関係なく「兼ね浜」が転化したもので、藩政時代、鍬ヶ崎と磯鶏の領有権の境の浜で、非常時は両者の権利を「兼ねる」と言う含みがあったものと思われる。

 僕は家庭の事情で藤原にも何年か住んでいた。家は現在の藤原保育所辺りの長屋で、松原の中にある公衆便所、津波で押し上げられてそのまま「ボクサッタ/朽ちた」船の骨組み、砂浜の中にあった保育所のゾウの滑り台などの記憶がある。玄関前は松原で台風や高潮になると目の前まで波が届く始終波の音がする家だった。藤原から小山田へ転居してからは夏休は母親の実家がある「キューダデ/旧舘・現・愛宕」にいたので、やはり夏は従兄弟の「ヒロボー/ひろし君」と家から海パン一丁で藤原須賀へ行った。朝、親から貰う「コヅゲーセン/お小遣い」は30円。そのうち20円は渡船の往復運賃、残り10円で「アメコ/あめ玉」を買ったり5円の「アイス/アイスキャンディー」を買ったりした。閉伊川の渡船は明治43年から藤原ー築地間を結んだローカル渡し船で、愛宕の某氏が親子数代で昭和50年前後まで船頭をつとめ、人から自転車、はてはバイクを渡すこともあり庶民の船として愛された。僕が藤原須賀へ行くために乗った頃の船頭さんは最後の船頭さんで大人たちは「トラさん(イントネーションは全下げ)」と呼んでいた。船は「ダンベ/魚積載用の無動力船」をスケールダウンしたような幅広な形に後方左に魯(ろ)がついていた。寒くなると「ミョウス/波押し・舳先」に一斗缶が置かれ流木を「モステ/燃やして」おり、これが唯一の渡船の暖房であり特等席だった。「トラさん」は河口を行き交う船舶が起こす波を巧みに除けて乗客を対岸に送り届け、岩壁の「ハスゴダン/梯子段」にがっちり船を接岸させるとお客の手を取り安全に上陸させた。船上で子供がふざけて「ハネバダグ/はしゃぐ」と容赦なく叱った。また、イタズラで対岸で客待ちしている「トラさん」を愛宕側から呼んでおいて乗らずに逃げたりしていると、何かの用事で渡船に乗った時に「オメーハ、コゴサ、オリロ/お前はここに降りろ」と途中の中洲に降ろされ泣いて懇願しないと助けてくれないということもあり、船頭さんの言うことは聞くようにと「ワラス」はもちろん大人たちも一目置いていた。だがこれはこれは海上旅客安全輸送の基本であり「トラさん」はそれを頑なに守っていたのであろう。

 市民に愛された藤原須賀は当時三選連続で市長だった故・菊池良三氏の埋立推進もあり昭和41年、今も保育所裏あたりから、磯鶏の国道沿いに残る藤原防波堤が完成、同時に広い須賀は潮流が変わりみるみる痩せていった。それでも浄土ヶ浜に観光客がおしよせ、宮古に進出した某社が地元採用200人をはじめ、まちは好景気に浮かれていた。しかしその景気がベトナム戦争をはじめ世界各地の戦争や内紛の延長戦上にあり、いつか景気が翳ることを誰もが気づかなかった。そんな時代だったから藤原須賀埋立に反対する者は「ワツカ/少数」であり景気優先の資本主義が堂々と支持される…、そんな時代だったのかも知れない。

 朝から夕方まで一日中藤原須賀で遊び呆けて夕方に「キューダデ」の家に帰ると、また15円渡されて吉野湯(銭湯)へ。背中は真っ黒「ケッツ/お尻」は真っ白の少年が鏡に映る。チンコの皮を「メグット/めくると」金色の雲母が混じった砂がどっさり入っていて、何でこんな所に砂が入るんだろう?と疑問に思うのだった。吉野湯のお湯はもの凄く「アッツクテ/熱くて」日焼けした背中にしみるため適当に身体を洗って銭湯を出る。夏の陽はまだ高い。「アダゴサン/愛宕神社」の森で「カンカンゼミ/ヒグラシ」が啼いている。夕飯まではまだ時間があるから「ヒマツブス/暇つぶし」に貸本屋で立ち読みをして、少年は今夜の「マヅアガス/松明かし」に期待するのであった。

懐かしい宮古風俗辞典

【ぶんどいろ】
ぶどう色。暗い赤紫色のことをさす。長時間海に入って体温が奪われたときのくちびるの色のことを言う場合が多い。

 楽しい海水浴だが、長い時間冷たい水に浸かっていると体温が奪われ、最後には心停止してしまう。海水浴ではさすがにそのような状態になるまで水に浸かることはないのだが、少しでも海で遊びたい子供にとって多少寒かろうが、脚が「フルッテ/震えて」いようが遊びが優先だ。だが大人に比べ身体も小さく体内の血液量も少ない子供は短時間で体内の熱が奪われてしまうと、くちびるが紫色に変色し歯ががちがちと鳴る。このような状態になったくちびるの色を「ブンドイロ/ぶどう色」と言う。この色は具体的に言うと暗い「アガムラサギ/赤紫」と言うか、品なく言えば「どどめ色」でかなり血行が悪くなった粘膜の色だ。「どどめ色」とはその昔、洪水の土留めに桑の木を植えたことに由来し、熟した桑の実が潰れた色を意味するのかも知れない。「ブンドイロ」になったくちびるは、陸に上がり太陽熱で充分に身体を暖めれば震えも止まりすぐにくちびるはピンクに戻る。この他、身体的部分の色に関する宮古弁にはモンゴル班を「アオケッツ/青尻」と言ったり、不健康な人を「アオタンツポケ/青丹筒・裏なり」と言ったりする。

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