Miyape ban 01.jpg

2008/02 オヤジの小言は後から効いてくる

提供:ミヤペディア
移動: 案内, 検索

 実業系の高校だった僕にとって三年生の春は「ヤンタガッタ/辛かった」。卒業まであと「ワツカ/少し・数ヶ月」しかないというのに僕は将来の目処がまったくついていなかった。ことあるごとに担任は僕を呼びつけ「オメー、ナードスンノヤ?/お前どうするんだ」と「ニガムスヲカッツブス/苦虫を噛む」のであった。その頃僕が通っていた高校では卒業が近くなると就職試験合格者と就職先の名前が書かれた紙が職員室前の廊下にこれ見よがしに「ハラサッテデ/貼られてあり」、2月初旬には各科合わせて7クラスあった僕の学年の半数以上が就職先や進学先を決めていた。何をやりたいとか何になりたい、一歩譲ってこんな感じの仕事に就きたい…などという意識もなかった僕は高校進学もどうでもよかった中学三年の時の気持ちと同じだった。あの時も試験さえ受かればどこの高校でもよかったしその先のことなど考えていなかった。

 そう言えば中学時代のある日、あの頃何事にも影響されやすかった僕はNHKで放送された陶芸の番組を見て陶芸職人に憧れた。土を捏ね、ろくろを廻しながら器を造る。そして三日三晩焼き、自分の造った器で飯を食う。おお、なんて素晴らしいではないか…と思った。そんなある日、親父がやはり「オメー、ナードスンノヤ?/お前高校はどうするんだ」と聞くので「オラー、コウコウサイガネーデ、トウゲイカニナル/オレは高校に進学せず陶芸家になる」と言ったら「ナニ、オドケデケツカッケナ、コノ、コバガモンガ/何、ふざけてけつかる、この馬鹿たれが」とガツンと頭を叩かれた。そりゃそうである陶芸家のドキュメントは「サギノバンゲェ/一昨日前」にテレビでやっていたばかりで、それを家族で観ているのだ。単に受験勉強をしたくない僕の下心も見透かされていた。そんな中学三年の夏を思い出しながらまったく浮かばない自分の将来像を考えた。

 「カセグ/就職する」気もなく、「カセギテー/就職したい」企業も見あたらない。さりとて大学へ進学する頭もないから、専門学校の案内状を集めてみることにした。それなりの雑誌などを眺めてはイラストレーター、インテリアデザイナー、グラフィックデザイナー、写真学校、美術学校…などなどかたっぱしから「案内書希望」のハガキを出しまくった。そしたら届くは届くは案内状の山、山、山だ。そんなパンフレットの中で最も僕が惹かれたのはやはりイラストレーターの専門学校だった。ハイカラなパンフレットとそそるキャッチコピーに踊らされその時はじめて僕の心に「デザイン」という美意識が芽生えた。よーし善は急げだ。早速オヤジに世の中においてのデザインの必要性と「マンガッコ/マンガ」とは違うイラストという世界を説明して自分はこの道に進みたいと告げた。しかしその日オヤジは非番で陽も高いうちからテレビの相撲観戦ですでに「ヤツケデ/一杯やって」いた。オヤジは「ソンナナードゴサヘーッテ、ペンキヤニデモナルッテガ/そんな学校に入ってペンキ屋にでもなるのか」「オメーハ、エーガノカンバンカギサデモナリテーノガ/お前は映画の看板描きにでもなりたいというのか」と声を荒げ「ナニガ、センモンガッコーダーテ、ソンナナードゴサバ、ワレガ、カセーデへーレ/何が専門学校だ、そんなに入りたければ自分が稼いで自分のゼニで入れ」と言うのであった。言われてみればその通りだ。学費のことは棚に上げて親のふところに「タガッテ/寄生して」訳のわからない学校に入ろうというのだ。世間知らずの子供の夢物語を聞いて「そうかそうかお前の好きなようにしなさい、援助は惜しまないから」と言う方がおかしいではないか。

 子供の頃から外で「ハッサリグ/遊ぶ」より2枚で1円の画用紙を買って家で「エッコベーリ/絵ばかり」描いていた。今は亡き裁判所近くにあった国鉄物資部の文房具屋で24色の「イロエンペズ/色鉛筆」をかってもらった時は天にも舞うような嬉しさだった。その後、学校の図工の時に描いた絵が何かの賞をとったり、中学の時も写生会で描いた僕の絵が賞をとり県内の中学校を巡回したこともあった。岩手銀行築地支店の二階ホールで当時の教育長さんから賞状と盾をもらい「オラガエーノ、タガラムスコガ、ナニガモラッターテース/ウチの馬鹿息子が何か賞を貰ったらしくてね」とオヤジも鼻を高くしていたではないか。なのに「エッコ」ではだめなのかと落胆した。

 オヤジが理解できない横文字の専門学校へ進学するためには「ワレガカセーデヘール/自分の金で入学する」しかない。だからと言ってそのへんの会社へ漠然と就職するのもいやだった。おそらく僕は無意識のうちに資格とか人にはない特別なスキルが欲しかったのかも知れない。

 そこで僕は単独で市内楽器店の事務所のドアを叩くことになる。そしていくつもの偶然とチャンスと人の出会いが重なり楽器店の正社員としてピアノ技術の専門学校へ入ることになる。この就職と進学は学校にも親にも内緒でほとんどを決めた。オヤジも文句を言わなかったが最後まで「調律師」と「調理師」を間違えていた。

 ピアノ技術学校を卒業し東京で嘱託調律師として実践スキルを積んで二十代前半に宮古へ戻った。そしてたった一年で楽器店を辞め色々な職を転々とした。口には出さなかったがオヤジは「ホーラナ/やっぱりな」と思っていたことだろう。

懐かしい宮古風俗辞典

【おつけぜぇーぐ】

非常に精度の低い間に合わせの大工仕事のこと。これに準じて何事においてもその場しのぎのような細工、仕掛け、デザイン、建築、料理などあらゆる面での適当仕事のこと。

 「棚を吊れば三日で落ちる」の例えの如く、寸法もろくに採らないで「メカンゾー/目勘定」で材料を切って、材料の太さに合わない釘で「プタツケル/叩きつける」ような仕事をして、「ああ稼いだ稼いだ、見ろ見ろ立派なもんだろう」と「ズマンペ/自慢」する父さんの仕事に限って、離れて見ると微妙に左右バランスがずれていたり、木のトゲで痛い思いはするは、「ヨンマニ/夜に」凄い音がしたと思って起きてみたら、棚が落ちて鍋釜が散乱しているというのはよくある。これらは父さんに「デーグケ/大工気」がまったくなく、生まれつき「デド/手先の器用さ」がないのも原因だ。そんな父さんの不器用さを知っていて結婚し、もう何年も暮らしているというのに、奥さんときたら「タナコグレーツグレッペースカ/棚ぐらい作れるでしょう」と無理難題を押しつける。面倒くさいと断れば「○×さんチの父さんは何でも作ってくれて…」と他の家のダンナを引き合いにして不器用な父さんをアオる。そんじゃぁしゃーねーなと20年振りぐらいで鋸を持ちトンテンカンと棚を作る。所要時間5時間、奥さんはいつもより立派な「オジューハン/昼食」を用意し、父さんは仕事が終わり一汗かいて早くもビールで晩酌状態。しかし棚は翌日崩壊。「やっぱりな、こんなことならホー○ックで出来合を買ってくりゃよかった」とせせら笑う奥さん。あんた、最初からそうしろよ。

表示
個人用ツール