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2007/12 市街地や住宅地にある石碑

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 石碑は信仰の対象や教訓、何らかの記念などさまざまな目的で建てられてきた。しかし時代が下り住宅地や道路整備などの都市計画においてどうしても石碑が邪魔になる場合がある。石碑を建てた時代は村境の利用価値の低い土地だったとしても現在は一等地という場合も多々あるわけで、いつの世も石碑は人の都合で移転することになる。

 そんなふうに考えると、横町、新町界隈に石碑がないのも当然であり、この辺りにあったかも知れない石碑は常安寺、御新山神社、判官稲荷神社などに移転した可能性も考えられる。大通りや末広町は昭和初期になってから区画された俗に言う「新開地」であり商業優先だから信仰対象などは最初からなかったのだろう。

 さて、新たに区画された場所にも新しい石碑はある。今月はそんな石碑から紹介する。最初の石碑は新町のホテル沢田屋の駐車場にあるもので「宮古岩」という岩の由来について書かれている。碑文には本誌創始者・駒井雅三の撰文で「明治33年に川井村の長安堂より分家した初代沢田盛五郎がこの地で旅館として開業した経緯と、宮古市街地の大半が海だった頃、この付近の岸辺に宮古岩と呼ばれた岩があり、その岩に小舟など繋ぎ磯漁などをしたと伝える…云々」とあり、「古くよりつたえきくなりこのあたり 宮古岩ありて語り垂れしとぞ」という駒井氏お得意の短歌が一首添えてある。この碑は当館三代目にあたる沢田信夫氏が昭和59年7月10日に建立、駒井雅三撰文、横山秋月揮毫、裏面に鈴木祐一刻とある。碑文の横にはミニ宮古岩として黒色の奇岩がありこれを宮古岩としている。

 宮古の地名由来についてよく聞かれるが、この宮古岩の説もまんざらでもない。宮古岩という奇岩があったから宮古が発生したか、宮古にあった岩だから宮古岩だったのかは知るよしもないが、阿波国の怪異を神歌で鎮め一条天皇より都と同訓の宮古を賜ったというこじつけよりは耳ざわりがいいような気がする。また、常安寺の山号も宮古山(こきゅうざんと読むらしい)であり、これが地名の由来と考えてもいいのだが、常安寺は江戸初期の創建当時は現在の市立図書館あたりにあり、慶長の津波で流されてから移転している。その時代にあの付近を黒田村を飛び越して宮古、あるいは宮古村と呼んでいたとするにはどうしても無理がある。従って寺の山号も宮古村が形成されてから宮古山と命名されたものだろう。

 次の石碑は昭和30年代から40年代にかけて田畑等を埋め立てて新しい宅地にした西町にある。石碑は西町佐々木建設前の交差点にあり、高さ1メートルほどの自然石の岩塊に碑文を刻んだ御影石をはめ込んだもので「一本柳の跡」とある。言い伝えによるとこの場所に柳の大木があり、江戸時代の旧山口村ではこの付近を一本柳と呼んでいたらしい。碑文では年代不詳だが江戸時代に宮古地方を襲った「ヨダ(津波)」により山口川を逆流する波に乗ってきた「ダンベ(魚運搬用の舟)」をこの地にあった一本柳に繋留したという伝説があったことを伝えている。建立は平成元年六月吉日で山口の有志建之とある。

 山口川は山口小学校前で分岐し、一部は昔からの川として黒田町を横切り末広町の裏手を流れ中央通りからら蓋がされ道路下となり築地で閉伊川に合流する。もう一方は大正時代に開削された放水路を流れ横山八幡宮裏から閉伊川に合流する。この工事は水源から海までが近い山口川が少しの雨により氾濫するので宮古村と山口村が合同で協議し放水路としてもうひとつの山口川を作ったものだ。

 次の石碑は田鎖地区にあるもので、昔の石碑を近年の台座に載せ替えて別の信仰媒体として再生したものだ。石碑中央に念佛供養塔、右に明和五戌子歳(1768つちのえね)、左に七月十□□・仲間中とある。そしてこの石碑が載る台座には昭和六十一年一月十九日・交通安全まもりがみ・沢田勉建立とある。おそらくこの石碑は田鎖神社への登り口でもある場所に江戸時代に建立されたが、時代が下って区画整理などで移転、最終的に土地所有者でもあった沢田という人が、交通安全の守護神として新たに祀ったものと考えられる。

 最後の石碑は、石碑ではなく地蔵尊だ。この地蔵尊は現在は使われていない善勝寺に併設している火葬場の入り口脇にあるもので、台座正面には泉徳地蔵尊、右に昭和五十四年八月吉祥日入魂供養・千徳火葬場建立とある。地蔵横にはペンキ書きの火葬場と地蔵の由来看板がありそれによると次のようなことがわかる。当初千徳には衛生的な火葬場がなかっため、千徳地区の盛合要之助、仲田長右衛門、中屋伝次郎をはじめ根市、折壁、長沢などの有志が集まり火葬場建設を立案、530万円の建設費のうち150万円を市の補助として残りを有志をはじめ地区民の寄付協力により昭和40年5月に千徳火葬場として落成した。その約15年後の昭和54年までで約2700体の遺体を火葬しておりその供養の印として地蔵尊を建立、泉徳地蔵尊と名付けている。この地蔵の由来は昔、千徳が中村と呼ばれていた頃の伝説に干ばつに泉を得たというものがあり、これが地名の起こりとして泉得(せんとく)と伝えられており、それにならい命名されている。またこの地蔵尊を起点にして善勝寺を巡る、善勝寺山内札所巡りの第一番札所としている。千徳火葬場は組合形式で運営されていたが松山地区に建設された市営の斎苑が稼働してからほとんど使われていない。

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