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2007/11 津軽石地区新旧石碑巡禮

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 先々月別件の墓探しで津軽石の龍谷山瑞雲寺を散策した。残暑が厳しい昼下がりで夕刻近くに大量の蚊の攻撃に遭い退散したのだった。石碑散策において蚊は本当にやっかいだ。年代や名前などをメモするぐらいなら群がる蚊を手で払いながらでもなんとかなる。しかし、拓本を取るとなると蚊に刺される覚悟が必要だ。特に秋の蚊は虫除けスプレーなどほとんど効かない。彼らも子孫繁栄のため必死で食いつき、こっちも締め切りをこなすため必死なのである。

 さてそんな蚊の思い出から2ヶ月が経ち再度、瑞雲寺の墓所を歩いた。まだ蚊はいるがその飛翔も頼りなく不快に群がることもない。今回は夏の散策で気に掛かった墓碑があったのでこのコーナーで紹介しようと思う。まずひとつ目は瑞雲寺歴代住職墓碑群がある寺の北西側の斜面にある墓碑だ。前面上部に当山中興開基とあり義山勝公大禅定門、大心巨公大禅定門・之墓とある。右側面には払川舘主、初代、一戸信濃守行政公(いちのへしなののかみゆきまさこう)、死没年月日、年齢不明、左側面には払川舘主、二代、一戸鬼九郎行重公(いちのへきくろうゆきしげこう)、天正十二年正月十二日卒、行年三十二才と刻まれている。墓碑裏には、大東亜戦争にて戦死せる次男故・陸軍一等兵勲八等、畠山正義の三十三回忌追善供養のため建立、施主・畠山金太郎、昭和五十二年三月二十二日、当山二十六世、大道泰信代とある。中興とは一旦衰えたものをまた再興させるという意味でこの寺が過去において廃れそれを再興したということになり、ふたつの戒名がそれぞれ墓碑左右に刻まれた人物のものという可能性が強い。

 中世の津軽石において津軽石を統治したのが千徳氏とも関係がある一戸氏だという説が定説となっているが、一戸氏以前にも津軽石が土豪の統治下にあったとすれば一戸氏は侵略によって津軽石を統治した、あるいは一戸千徳氏のような豪族が強大な武力で一気に土豪を駆逐しその残された舘や砦に親族を配置したとも考えられる。墓左側面の一戸鬼九郎行重(おにくろうと読む場合もあり)は血縁の千徳氏に謀殺された人物で、この逸話や伝説については何度となくこのコーナーや特集で取り上げてきたので今回は割愛する。

 次の墓碑は瑞雲寺北東側にある一般墓所の中にあるもので、津軽石の養護老人ホーム清寿荘が管理する墓だ。この墓は清寿荘で亡くなった老人の中で遺族が見つからず引き取り手の無かった遺骨を納めているもので、清寿荘が落成した4年後の昭和45年7月に宮古市により建立された。墓碑前面には「わたしたちは、やすらかに、ここにねむる、清寿荘」と横書きされ周辺はきれいに草刈りされている。清寿荘は平成4年に立て替えされ同16年から宮古市社会福祉協議会が委託運営している。現在入所者は50名で盆や彼岸をはじめ散歩などのレクリエーションで墓所を訪れているという。墓には15体の遺骨が納骨されており清寿荘関係者たちによって手厚く葬られている。

 次の石碑は前述の一戸氏の逸話に関係するもので、舘ヶ下、通称「ぬんまり」の沼里氏墓所にある。中央に聖福開山大和尚、右に明治十年、左に九月建立とあり右側面に願主、沼里三之助とある。碑文の聖福とはこの地区が別名で総福沢と呼ばれていたことに由来しており、その昔この地に旅の雲水が草庵を結んだという。沼里舘に一戸氏が居城した頃、この地に庵寺があり、のちに一戸氏は手狭になった沼里舘を捨て新たに払川舘を築城、総福沢の庵寺も払川舘の側へ移転させそれが現在の龍谷山・瑞雲寺ということになっている。この逸話が最初に紹介した「当山中興開基」の意味となる。しかしながら一戸氏、沼里氏、千徳氏の詳細についての古文書は江戸期になってから史実を誇張して書かれたものが多く、各氏の詳細、戦に至る直接の原因などは判らない。

 最後の石碑もまた遠からず一戸氏に関係するものだ。石碑は宮古市立津軽石小学校の玄関横にあるもので、石碑正面に意地(実際は左書き)、左下に中島覚之助書とあり、裏面に津軽石小学校創立百周年新校舎落成記念、昭和52年6月19日、寄贈者、真木建設株式会社、大手石材店とある。津軽石小学校は明治9年(1876)に新町の民家を借りて開校したのがはじまりとされる。石碑は元津軽石村役場にあった通称「べご石(牛の背に似るという意味)」に、元津軽石村村長・中島覚之助氏の書を刻み創立百周年及び新校舎落成を記念して移転、落成したものだ。碑文の「意地」とは戦前の地域一番主義と青年会活動が盛んだった頃、意地をもって何事にも向かおうという気概を込めたものだ。その頃、俗に「一津軽石、二千徳」あるいは「一千徳、二津軽石」などとことあるごとに千徳と津軽石は対立しライバルとしてお互いを意識した。この因縁はやはり中世の時代、一戸千徳氏の謀略で討たれた払川舘二代の一戸鬼九郎行重と、払川舘を攻め滅ぼした千徳氏の戦に関係している。意地に関して平成5年の津軽石小学校畠山恭政校長は学校通信の中で、個性重視、誉める、認めるだけでは強い意志力を持った人間は育たない。時には困難も体験させ「意地」をもって貫き通す気迫も必要ではないかと記しており、まさに先人たちは意地という気迫が教育そして地域に必要だということを伝え残したかったのだろう。

 意地。珍しい碑文ではあるが、この二文字には津軽石の歴史的意味合いと、人間としての下地を問うテイストが流れている。

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