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2007/10 石橋供養塔と橋供養塔

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 名もない集落がいつしか「村」となり、そこで暮らす人々が共同体として「村」を意識すると、必然的に村には「境」が発生する。境は同時に村の限界地点であり境より外側は村ではない場所、すなわち異界とされた。境は峠や辻などであり川などがある場合、橋も村境と見なされた。橋は「こちら」と「あちら」を結ぶ中性の空間であり、同時にそれは「穢れ」と「晴れ」「あの世」と「この世」を分断しつなげる役目もあった。また、実際に橋は交通手段の中で重要な役割を占めており、橋の利便性は「村」にとって必要不可欠なものだった。しかしながら橋は人工物であり洪水などの災害で流失する場合が多く、昔から流されるたびに村人総出で普請や架けかえ工事が行われてきた。

 村境のひとつでもある橋からは村の外側から侵入してくる悪病、悪神などを封じるために庚申塔や橋供養塔などを建てた。これらは村を保守する塞ノ神としての側面があり、同時に村のシンボルであり、旅人にとっての追分け道標としての役目もあったろう。そこで今月は市内各所にある橋に関係した石碑を巡ってみた。

 最初の石碑は藤原観音堂横の石碑群の中にある石橋供養塔だ。この石碑は独自のロゴマークを使って多くの石碑や石宮を手がけた江戸末期の石工・亀治の手によるもので過去にも紹介したが、今回はこの石碑移転の経緯についての推測も含めて再度紹介する。石碑は中央に石橋供養塔、右に嘉永七年甲寅(1854・きのえとら)、左に九月吉祥日、下部に願主・当村中、美川藤七、中居嘉作、小田代太三郎、山内安五郎ら計11人の連名と念仏講中とあり、最後に石工亀次とある(石碑により亀次・亀治の二種類の名がある)。この石碑について以前このコーナーで紹介した際、付近に川などないのに石橋供養塔があるのが不思議だと書いたところ、藤原地区の方から昭和初期の頃、水産学校(現・藤原小学校)の横の通称「ねごやの沢」から小川が流れており現在の国道45号線・藤原歩道橋のある交差点付近に石橋があったと報告があった。小川は度重なる水害で現在は埋まってしまい、その後の県道工事などで石橋も撤去されたという。付近には「橋の前」などのような橋に関係した屋号の家も数軒あり、実際に石橋があった事実を物語っている。加えて現在、観音堂横にある供養塔も建立当初は石橋の脇にあり、小川が埋まり工事により石橋が撤去されたと同時に観音堂へ移転されたのではないかと思われる。

 次の石碑も石橋供養塔だ。石碑は通称、鍬ヶ崎仲町から道又沢を経て「おやまの沢」を登り国道45号線にぶつかるあん橋の袂の石碑群の中にある。中央に石橋供養塔、右に文政二庚申年(1819・かのえさる)、左に七月吉日、下部にやはり念仏講中とあり、石碑下部前面に草書の連名があるが風化と苔により判読は難しい。「おやまの沢」は現在完全に護岸され中里団地から梅翁寺の左側を流れ鍬ヶ崎へ続く。沢に沿って住宅が密集しており生活水が流れ込んでいるが、その昔は風光明媚な美しい沢であったろう。峠の頂上付近は日影町へ降りる「ひかげの沢」本照寺から愛宕へ降りる坂、そして遊郭があった上町へ降りる夏保峠があった峠の交差点で付近は愛宕、鍬ヶ崎の村境でもあった。

 次の石碑は長沢の神倉地区にある橋供養塔だ。この供養塔は南川目と北川目へ向かうY字路の南川目入り口側に架かる橋の袂にあるもので、中央に橋供養、右に文政七年(1824)、左に申六月十五日とあり、下部中央に惣村とある。惣村の「惣」は「総」の意味になるから「そうそん」と読んで村人すべてという意味なのか、「惣領(そうりょう)」のように大勢の中の代表という意味なのかは判別しがたいが、南川目の村境に建立した塞ノ神も兼ねていることは確かだ。

 最後の石碑は南川目の反対側にある北川目にあるもので、石碑中央に橋供養林宗六世、右に宝暦八寅年(1758)、左に三月廿五日とある。この石碑は閉伊街道の開削と難所工事に晩年を捧げた江戸中期の名僧・牧庵鞭牛が建立したものだ。鞭牛は石碑にある宝暦8年の春に閉伊川街道の難所工事に着手し、この石碑を立てた日付に前後して、3月27日に腹帯の大淵難所開削、4月7日に下川井の難所開削をし石碑を建立している。通算して鞭牛はこの年だけでも8基以上の道供養塔をはじめ各種供養塔を建立している。

 さて最後に橋と言えば私たちが死後に訪れるという冥界にも三途の川があってそこにも橋が架かっているという。死者は三途の川を渡り地獄や極楽へ往生するわけだが全員が橋を渡れるわけではないらしい。橋を渡って向こう岸に行けるのは生前に善行を積んだ人だけであり、ほとんどの亡者は川を歩いて渡るのだという。この川の川幅や深さ、流れの強さなどはその川を渡る人の現世においての罪によって変化するらしく、膝下程度の浅い川だったり、胸まで浸かる激流であったりするという。とにかく私たちは現世でも格差という現実の中で暮らし、あの世へ旅立っても因果応報とはいえ、格差により待遇の差を実感するというわけだ。

 三途の川を渡りきるとそこには亡者の衣服を剥ぎ取る「脱衣婆(だつえばば)」がおり、剥ぎ取られた衣服は「衣領樹(えりょうじゅ)」という樹木の枝にかけられる。枝は衣の持ち主が生前に犯した罪の深さによってたわみ、このたわみ具合で生前の罪深さが測定されるという。念仏講中などの女たちが橋供養の石碑を建てた経緯には、大切な交通手段の橋を守るとともに、三途の川や賽の河原などの死者たちが集うとされる冥界の供養の意味もあったのかも知れない。

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