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2007/07 黒森神社の石碑と文学碑

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 宮古市最古の神社はどこか?という疑問に対しての正しい答えは黒森神社であろう。黒森神社には鎌倉末期から南北朝時代にかけて奉納された獅子頭があり、それらを使った舞や使役などがそれ以前の時代からあったものと考えられるからだ。とは言えそれ以前の歴史や神社創建は不明のままだ。

 神社をはじめ各種信仰媒体の発生を遡れば崎山貝塚の石棒や集落のシンボルだった立石なども信仰媒体であったとも考えられるし、もっと古い時代となれば単なる巨岩や見渡す山だったり、究極的には太陽や月も信仰媒体であったろう。人は何かを崇拝し恐れることにより文明をコントロールしてきたわけだが、神や仏も文明の進化や支配により信仰に対する考え方はころころと変わる。そう考えると宮古市内各所に点在している神社、道ばたの草に埋もれた小祠も、規模の大小にかかわらず誰かが信仰している、または過去に崇拝された事実を下地に持っているわけで、信仰媒体にとって古いとか新しいという尺度は無意味なのかもしれない。

 宮古の歴史を語る上でよく引用されるのが、夢で得た神歌を携え阿波の国へ赴いた横山八幡宮神官の話だ。しかしながらこの説は江戸時代に神社の社格を上げるために創作されたものだろう。江戸後期、興廃する神社を憂いで鍬ヶ崎の近藤茂左右衛門という人物が、やはり鍬ヶ崎の漢学者・高橋子績(1700~1781)に依頼し横山八幡宮の社歴の執筆依頼をしたことにはじまる。後に茂左右衛門は子績の記した一巻を携え京都へ向かい吉田神道の門を叩き神官として官位を得て帰郷する(横山八幡宮記)。この際に吉田神道の末席に横山八幡宮の名が記載され、同時に神歌にまつわる逸話や宮古の地名に関する説が認められたと考えられる。また、子績が残した文書の中には義経北行伝説において、義経郎党が黒森神社に籠もり写経のため長期滞在したというものや、黒森山全体がとある高貴な人物を埋葬した御陵であるという記述もある。これらの古文書が後世に翻訳され各種伝説のファクターとなり一人歩きして現在も形を変えながら私達を惑わしているわけだ。

 さて今月は黒森神社参道に点在する石碑を紹介する。藩政時代の黒森神社は町中に点在する神社などに比べ社格が高く信仰しているからといって一般人が建立する安易な石碑は置けなかったようだ。そのためか道路工事や区画整理などで神社に吹き溜まる庚申供養塔、明治政府の廃仏毀釈に関係する天照大神などの石碑は見あたらず、江戸中期頃に奉納された石灯籠、石の手水鉢などが多い(一部ペンキ書きされたものあり)。古い時代の社は古黒森と呼ばれる旧参道の方にあったというからこれら石碑や石灯籠も何度か移動しているはずだ。

 最初に紹介する石碑は社殿右側にあるもので中央に本殿銅板葺替記念とあり、右に昭和九年、左に旧六月十四日とある。台座左には石碑建立に関係した山根正三をはじめ当時の山口村村長、藤田喜一郎ら7名の連名がある。現在の社殿は嘉永3年(1851)に現在の場所に遷宮したものでそれ以前は一段下の境内にあったとされ、現在は旧社殿跡として基礎石が残されている。この碑が建立された昭和9年は山田線・盛岡ー宮古間が開通した年で、同時に黒森神社顕彰会による黒森神社長慶天皇御陵説で宮古が沸き立っていた頃だ。そんな折りに行われたこの工事は江戸末期からの屋根材が朽ち、長慶天皇御陵説を打ち出す神社として見た目にも悪かったために屋根の銅板葺き替え工事が行われたものと考えられる。 (※黒森神社顕彰会は本誌2003年9月号で詳しく紹介)

 次の石碑は黒森神社参道にある3基並んで建つ黒森山を讃えた文学石碑群の中のひとつだ。これらは平成13年に黒森神社氏子総代会、そして会の代表だった摂待壮一氏らが建立したもので、右に明和8年(1771)に宮古を訪れた盛岡の文化人、村井勘兵衛が詠んだとされる宮古八景の中にある「黒森暮雪」を刻んだもの、左に鍬ヶ崎の俳人・後藤七朗氏が平成5年に詠んだ俳句を刻んだもの、そして真ん中に昭和初期に黒森神社御陵説を中心に活動していた黒森神社顕彰会の会長だった盛合綏之(やすゆき)による黒森を讃えた漢詩が刻まれた3体の石碑群だ。漢詩は全部で48文字あり8行の漢詩となる。1、2、4行目、5、6、8行目の文字の脚韻は「ン」で統一されている。この詩を本誌では右の通りに読み下す。

①老杉千尺聳昂然
ろうさんせんしゃく こうぜんとそびえ
②神霊奉崇幾百年
しんれいほうすう いくひゃくねん
③賽社歸來覃註古
さいしゃきらい たんちゅうこ
④緬懐龍舸耿無眠
めんかいりゅうか むみんにこうす
⑤峻坂登舉指顧頻
しゅんぱんとうきょ しこひんなり
⑥跪踞拝濤感傷新
ききょはいとう かんしょうあらたなり
⑦稜威赫赫真無比
りょういかくかく まことにむひ
⑧日夕神麻幾萬人
にっせきしんま いくまんにん

 碑文は7文字目に空白を加えるか、一行を14文字で改行していれば読みやすくなるのだがこの石碑では15文字で改行されているため「賽社さいしゃ」と「稜威りょうい」の文字が離れてしまい熟語的意味を失う場合があるので注意が必要だ。ちなみに「賽社」は秋の収穫を田の神に感謝するという意味があり、地名となっている田の神に合致する熟語だ。作者の盛合綏之は津軽石出身の軍医で晩年は片桁の盛合医院の院長であり政治家だった人だ。碑の左下には黒森神社漢詩二遍、元黒森神社顕彰会会長盛合綏之作詩、盛合章平書、平成十三年十二月吉日、黒森神社氏子総代会建之とある。

 最後の石碑は石碑と言うより黒森神社に奉納された手水石だ。この石の鉢は社殿に向かって左側の樹齢数百年と思われるカヤの巨木の下にある。正面には大きく奉納とあり右側面に宮古本町治右衛門、左側面寛延(かんえん)三年(1791)と年号がある。当初は石の上部を凹ませ水を溜めるだけの手水石だったが、近年は地下水を配管して手水石に水が注がれるようになっており、この水が下の弁財天の社がある赤池と呼ばれる池に溜まるようになっている。

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