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2007/03 難解で説明しにくい不可解な宮古弁を解明する

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【ムスケル派・ムイケル派】

 昭和40年頃、下閉伊郡のとある分校に新任の先生が赴任した時の話だ。国語の授業で作文を書かせたところ、ある生徒が方言をそのまま文字にして作文を書いてきたという。先生は宮古生まれの宮古育ちではあったが、いかんせん「マヅバ/町場・繁華街」育ちであり、比較的「ウミバダ/海岸線」の方言にはある程度の免疫はあったが、平たく言えば「ヤマオグ/山奥・田舎という意味」のあまりにもローカル色の濃い方言は理解できなかった。そんな新任の先生を最も悩ませたのが「ムスケル」という表現だった。

 生徒が書いた問題の作文の内容は、家の「ズーヤン/おじいさん」が「トリッコ/小鳥」を「アヅガッテデ/飼育していて」その「トリッコ」が卵を産んでそれが「ムスケダ/かえった」というものだった。先生はおおよそ「鳥のヒナがかえった」という意味であることは予測できたが「マヅバ」の先生の家ではニワトリなど「アヅガッテ」いたわけでもなく不覚にも鳥類の産卵や子育てを見たことがなかった。先生は作文を書いてきた生徒に「『ムスケダ』っていうのは卵からヒナにかえることでしょう? 」と聞いてみると「うん。先生、ムスケルってワガンネーのすか、変だー」と笑われたという。とまぁ、ここまでなら生徒が少ない分校でのホンワカとした逸話なのだが、それを聞いていたある生徒が「ムスケルでねぇーべぇーが、ムイケルだぁべーが」と反論した。すると作文を書いた生徒は「ツガーガヤ、ムスケルだぁーべぇーが」と言い返した。たいしたことない作文が原因でクラスは「ムスケル派」と「ムイケル派」に二分し、その方言を知らなかった先生は困ってしまったという。

 この話は下閉伊郡の分校を行脚しずっと昔に退職した元・女教師に聞いた実話なのだが、改めて見直すと「ムイケル」と「ムスケル」は「卵がかえってヒナになる」という意味は同等でも解説してゆくためには根底に秘めた意味がかなり違うような気がする。両者の最終にある「ケル」は「ヤッテケル/やってあげる」「ミデケル/見てあげる」の「~ケル」であり宮古弁風の動詞としての証だ。となると両者は先頭の二文字の「ムス」と「ムイ」になる。これを親鳥が卵を抱いて温めるという行為を「ムス」=「蒸す」とするのか、温められ卵がかえりヒナが卵を内側から破る時にあたかも卵の殻が「剥ける」ように見える例えとして「ムイ(剥けるの意)」なのかということになる。また「ムス」は「蒸す」や「剥ける」ではなく別の古語がベースになっていたりするとも考えられる。ちなみにゆで玉子の殻は「剥く」と言うが、これは食べる側が剥くのであり、ヒナが内側から殻を剥くという表現はどうかと思う。また、僕が子供の頃は粉ミルクの缶の中に「アヅガッテイダ」カブトムシの幼虫がサナギになって無事に成虫となる場合も「ウマグムスケダ/上手に成虫になった」と言った。これに関しては本来「ムスケル」「ムイケル」が抱卵する鳥類に関しての表現であったかも知れないのに、同等に動物が変態することに対して大きな括りで「ムスケル」と言ったのかも知れない…。あなたは「ムスケル派」ですか?「ムイケル派」ですか?

【アバクヅの本当の意味って何?】

 宮古弁は「オオキニ/どうも」とか「オヨーデンセ/客の送り出しに伴う敬語」のように悠長で美しい言葉だけではない。中にはもの凄く下品なものや差別、誹謗中傷、身体障害をストレートに表した言葉も多々ある。これらの言葉はテレビなんかだと「ピーッ」と咄嗟に警告音を入れてはしょったり、昭和40年前後の懐かしドラマやアニメの再放送のように口元は動いているのにその部分だけ無音という加工シーンをよく見かける。これらはその言葉が誹謗中傷と捉えられかねないことと、今と昔の放送倫理が違うため放送できないというものだ。本来そのような言葉や表現は本誌でも取り上げずに宮古弁を説明したいのだが、宮古弁の中にはその発生パターンや活用などを詳しく解説するために結構きつい差別用語などが必要な場合もありこれは宮古弁を究めるためには避けては通れない部分でもあるということをお断りし、このコーナーでは「アバクヅ」という表現について考察したいと思う。

 「アバクズ」は飲み込まれそうな大きな口という意味で「アッパクヅ」とも言うが、実際は口が大きいことに増してどぎつい紅をさしたタラコのような厚ぼったい「クヅビル/唇」という形容詞として使われるようだ。この宮古弁の先頭にある「アバ」に関しては昔どこかの方言解説で定置網の「網場」が「アンバ」となり、網に取り付ける桐材で作った「ウギコ/浮き」のことを「アバ」と言う、宮古町「コーガンヅ/光岸地」の定置網の神様・大杉神社を「アンバ様」というのはこれに由来する云々…。と読んだことがある。この説の枝線上に網の「ウギコ」の形状が楕円で縦に筋があるため、これが大きな「クヅビル」のように見え「アバクヅ」は「網場の浮きのような形の大きな口」という説があった。しかしながら宮古という町は海や魚とは切っても切れない縁にあるから、そこに発生した宮古弁もきっと海や魚に関係するに違いない…。と何の疑いもなくこのような「トッテツケダ/適当に取り繕った」説を「マルコノミ/丸飲み」にしては視野が狭くなるだけだ。「アバクヅ」は網や海とは無縁の内陸に、縄文遺跡とセットになった「アバクチ」という名の洞窟があったりするから「アバクヅ」=「ウギコ」説には到底無理がある。加えて宮古弁には聾唖者のことを表現した「アバヤ」という言葉がある。「アバヤ」の語尾にある「ヤ」は「屋」で「ミセヤ/お店」的表現であり、広い意味で常設という意味だ。こうなると「アバ」という部分は口そのものであり、しかもいつも開いたままの空洞、すなわち人を飲み込む洞窟のようだという意味が見えてくる。加えて「ア」も「バ」も母音は「a」であり発音すると口は開いた状態になる。すなわち「アバクヅ」とは「開き口」という意味ではないか?と考えられる。

 この仮説で「アバヤ」を解いてみると、何もしていない状態で口を大きくポカンと開けてうつろな目をしているという状態が見えてくる。なにせこの状態ならいくら立派な人でも「タンナグミエル/足りなく見える・完全ではない」わけで「アバヤ」とは本来「常時開き口の状態」という意味になると思うがいかがなものでしょう?

懐かしい宮古風俗辞典

【えーへど】

 神子の「ネマリタクセン/座っての託宣」に際して、神様が憑いた神子に対して信仰心を表す合いの手を入れる係り。主に年長の老婆がやる。語源、漢字表記等不明。

 祭りは神様を現世に降ろし非日常のご馳走で民の信仰をわかってもらい、祭りが終わったらまた何処の「オグヤマ/奥山・人が入らない異界」にお帰りいただくというのが基本だ。人は神の威厳におののきながらも、せっかく降りてくださった神様に神にしかわからない未来などを予言してもらいたいスケベ心もある。なのに降りてきたはずの神様は無色透明で見えないし気配もない。そこで登場するのが「イダコサン/神子さん」だ。「イダコ」と言っても仏を降ろす「イダコ」ではなく神様を降ろす「神子(みこ)」さんだ。「イダコサン」は湯立てなどの信仰的段階を踏まえて「トゴロガミ/その神社の神様」を体内に降ろす。これによって「イダコサン」を媒介して普通の人たちと神様は会話が可能になる。会話は暦上の厄災の「ゴタクセン/託宣・予言」がほとんどで、数珠を揉みながらトランス状態となった「イダコサン」に「ゴスンコーセンスッツケーニ、オマブラッテクタセンセ/ご信仰しますからお守りください」と託宣を長引かせ、できるだけ多くの予言を聞き出す合いの手を入れる人たちを「エーヘド」と呼ぶ。「エーヘド」の上手下手で神様は形式だけの短い託宣で終わる時も、より長く詳しい託宣を何度となく繰り返す場合もある。ちなみに託宣で得られた日にちは旧暦か新暦か迷うところだが、年長の「エーヘド」の老婆に聞くと「ドッツモキーツケンノス/どちらも気をつけるのさ」と言われたりする。

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