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2007/02 花原市華厳院にまつわる石碑

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 明治40年(1907)盛岡の菅馬笑(かんばしょう?)と名乗る洒落人が下閉伊管内を気の向くままに訪ね歩き、その紀行文を『遍めぐり』として当時のローカル新聞に連載している。芭蕉が『奥の細道』で辺境地を旅したことにならって自らの号を「馬笑」とシャレて当時盛岡から見ればそれはもう辺境地の下閉伊を旅して、今で言う旅のレポートをしたわけだ。その中に花原市地区の洞沢山華厳院の話が出てくる。それによると11月5日に華厳院に立ち寄った馬笑は華厳院に伝わるという寺宝「源氏小碗」を拝見すべく住職に謁見している。当時の住職、久保田東伝師は「まず泊まるべし」と寺への宿泊を勧め、寺にまつわる様々な話を馬笑に話して聞かせたという。ちなみに「源氏小碗」とは閉伊氏の先祖とされ、平安末期に八丈島で自害した鎮西八郎為朝伝来の茶碗とされる逸品で華厳院に伝わるとされるがその真意は不明だ。そのためか馬笑は華厳院での紀行文で茶碗にはまったく触れず、吉里吉里村の田鎖氏が文書を持参して華厳院を訪れ、先祖が蟇目から出たこと、江戸末期この地を治めたのが楢山氏であったことなどを記している。華厳院に一泊した翌日、馬笑は千徳村を経て宮古町へ向かう。この間に戦国時代であった天正年間に一戸孫三郎が守った千徳城のこと、千徳氏との戦に敗れた一戸鬼九郎のこと、善勝寺と桜庭氏の関係、長根寺の尾玉尊の伝承などを取材し夕刻には山口村の駒井宇八郎氏宅へ宿泊している。

 さて今月の石碑は前段でも触れている華厳院に関係した石碑を巡ってみた。最初の石碑は華厳院参道脇にあるもので、中央に道供養碑、左に宝暦八戌寅(1758つちのえとら)左に□月八日とあり、下部に橋野村林とある。石碑は河原などから拾い上げたような深緑色の自然石で左横と上部全面が剥離、下部は破損しており加工や材質から見て台座との年代は合致しないと思われる。下部破損のため紛失している石碑ではあるが宝暦年間の道供養で橋野村とあれは、林は「林宗寺」であり、建立者は林宗寺六世牧庵鞭牛と思われる。ちなみに鞭牛の石碑は南川目の十三仏をはじめ市内に点在するが華厳院にもあることはあまり知られていない。

 次の石碑は華厳院入り口に建つもので石碑というより記念碑に近いものだ。碑には大村治五平翁終焉之地とあり、左下に金田一京助謹書とある。裏面へ回ると額彫りがあり碑に関する詳細があるようだがまったく文字は読みとれない。大村治五平という人は南部藩士であり、南部藩が幕府の命令により東蝦夷地を警備していた文化4年(1807)南部藩砲術師として常駐していた人だ。文化元年(1804)にロシアは日本人漂流者を送り返すとともに使節を送り日本との通商を求めた。これに対し幕府は漂流者は引き取ったが鎖国方針を理由に外交通商を拒絶、これを機にロシア軍は数年後実力行使としてエトロフ島に上陸、日本の警備宿舎などを焼き払い土地の娘らを略奪するというエトロフ事件が勃発。この戦いでロシア軍の捕虜となり後に利尻島沖で釈放されたのが大村治五平だ。治五平は捕虜となった経験と汚名を払拭するため手記を執筆『私残記』として後世に残した。ちなみにロシア軍の強行侵攻でもあるエトロフ事件が勃発した文化4年、事を重く見た幕府の命により南部藩では北方警備のため、鉄砲の鑑札を持っていたマタギ猟師を招集、宮古代官所では宮古下閉伊のマタギ16名に招集令状を出している。

 石碑横には数年前まで治五平に関する説明看板が存在したが朽ち果てたため現在は撤去されておりこの石碑に関する詳しい経緯は判らない。また碑文を謹書している金田一京助氏との関係、「~終焉之地」と表記されている理由など不明な点も多い。

 次の石碑は鎌倉初期宮古の地をはじめて統治したと伝えられ、父為朝の法名から寺名を戴き華厳院創建に関わったとされる閉伊氏の居城であった根城舘の麓の石碑群の中にあるもので、中央に蓮□四百年忌、右に明治三十一戊戌(1898つちのえいぬ)旧三月二十五日一味講中とある。碑文2文字目は指でなぞると「帰」「如」「師」とも読める。「師」であれば略字(俗字)であり仏教の中に存在する各宗派の創始者を意味し「祖師」と同等の意味でと思われる。「如」であれば本願寺八世、本願寺中興の祖蓮如という和尚という意味になる。蓮如が没したのは室町時代の明応8年(1499)でありそこから400年後は明治32年(1899)であり、まさに碑文の四百年忌と合致する。

 最後の石碑は根市鈴ヶ森神社境内にあるもので、中央に聖徳皇太子、右に大正十三年(1924)二月二十二日、左に願主大森丑之助建立とあり裏面に、

記念木植立
大正七年春桧三本 鈴ヶ森神社内ニ植付奉納シ寄進
大森丑之助
華厳不二書

とある。鈴ヶ森神社境内には華厳院住職「不二」という人の書による碑はこの碑の他に天照皇大神の石碑がある。

 鈴ヶ森神社は田村忠博著の『古城物語』では閉伊氏が根城に築城する前、木材などを切り出した仮舘があったのではないかとしているが、閉伊川を挟む形であり根城が対岸上流に位置することから安易に建築材として木材を切り出したとか、舘建築前の仮舘があったとは言い切れない。根市付近は砂鉄などを採取する樋材として木材を切り出した名残が「板沢」の地名として残ったのかも知れない。

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