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2007/01 記録文章がある記念碑2

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 今月紹介する石碑も先月に続いて宗教的信仰や神仏を讃えるため建てられた石碑ではなく、明治期に建立された記念碑的性格をもつ石碑を3基紹介する。

 まず最初は沢田の宮古山常安寺山門にあるもので大きな枠で括ると海難事故に関係した慰霊碑だ。碑は中央上部に供養費とあの中央に20字詰めの漢文で碑文が刻まれ、最終行に明治四十年(1907)六月十日宮古町流網漁夫連中とある。碑文から察するところ明治40年旧5月16日、鮪流網漁を終えて宮古港へ寄港する途中だった船舶が、沖合7海里(約14キロ)で浮遊していた水雷に接触し爆発、乗組員だった鈴木多助、宝勇太郎、鈴木松太郎、鈴木福太郎、松原専平の5人が死亡した。この事故後宮古町流網漁夫連中は仲間の死を悼み供養費を建立したということが伺える。

 この時代の浮遊水雷とは日露戦争の際に日本、ロシア両軍が敵船舶侵入防備のため各港に設置した固定式の機雷で、日露戦争終結後固定索が腐食し日本海へ流れ出し、一部は津軽海峡を越えて太平洋へ浮遊したものだ。当時の機雷は球状の爆弾に放射状にトゲのような突起状の信管がありこれに船などが触れると爆発する仕組みだった。機雷は重りをつけて水中に固定し複雑な水路を形成することにより敵船舶の侵入を防ぐものだ。

 機雷の浮遊コースは近年定置網に被害をもたらす越前クラゲの浮遊コースと同じで、当時かなりの機雷が太平洋へ流れ込んだらしい。宮古ではこの種の事故を含め機雷駆除などがあり、崎山大付地区の神社には日出島沖で浮遊機雷を駆逐艦の砲撃で爆発させた瞬間を撮影した写真が奉納されている。

 次の石碑は日露戦争つながりで、北川目にある日露戦争の戦績記念碑だ。碑は中央上部に日露戦争と2行縦書きされその下に紀年碑と右読みで横書きされ、戦績が漢文で箇条書きされている。下部には出征忠志者、上山伊勢太郎、内舘鉄五郎、上山熊太郎、水本伊勢五郎、内舘哲太郎、阿部三蔵、有志者として伊東春松、阿部亀之助、外組中の連名がある。碑文には明治37~8年(1904~5)明治天皇より公戦の詔勅があり、9月には遼陽(りょうよう)を陥落させ進軍、翌年1月には旅順口(りょじゅんこう)で敵軍を降伏させ占領、その足で黒溝台(こっこうだい)、3月には奉天(ほうてん)で大きな戦いがあり、7月樺太上陸、全島を占領、8月にはアメリカの講話が提示され9月に戦争は終結、10月に天皇の詔勅が降ろされたと刻まれている。

 日露戦争は不凍港を求めて極東を南進したロシア軍と朝鮮半島を国土防衛上の絶対ラインとしながらアジア経済圏へ進出しようとしていた日本軍が衝突したもので、日本は日英同盟により英国の支援を後押しにして参戦、アメリカは中立の態度で講話へ導いた。この戦争では日本海軍がロシア最強のバルチック艦隊を破るなど戦闘部分が誇張されており後の太平洋戦争への軍国思想につながっている。 この戦争で日本は勝利したとされるが、実際には大国ロシアは自国内での革命も勃発するなど政治的にも不安定な状態でありロシア側が消沈したと考えていいだろう。結果的にはポーツマス条約という講和条約により、日本は朝鮮半島における勢力を確固たるものとして国防上の課題を解決し南樺太を獲得した。一方ロシアはこの戦争での敗北を期に極東での南下政策を断念、進出の矛先をバルカン半島へ向ける。そしてこの進出は第一次世界大戦へとつながってゆく。

 日露戦争に関係した戦績記念碑や忠魂碑は、各地区にあり当時の日本人が抱いていた大日本帝国のイメージが伝わってくる。また変わったところで、馬の守り神として信仰されてきた津軽石駒形神社には日露戦争で軍人を乗せて走り、大陸で死んでいった馬の供養塔がある。

 最後の石碑は先月も紹介した明治29年の三陸大津波の記念碑で、磯鶏石崎の石碑群にある海嘯記念碑だ。通常見かける津波関係の石碑は津波襲来に役立つ避難標語のような文が刻まれたものが多いが、今回の石碑は津波来襲前の状況を難解な漢文で記している。碑は上部に右読み横書きで海嘯記念碑とあり、中央に20字詰めの漢文碑文がある。碑文最終行には明治35年(1902)五月、磯鶏区横死者男廿七女三十一、流失家屋五十三戸水没十戸とあることから、この碑が津波から7年後に災害による死亡者の七回忌を記念して建てられたことがわかる。

 碑文は比較的高尚な文脈となっていてかなり難解な表現だが、文字から推測してゆくと、その日は旧端午の節句で家々では酒宴の最中だった。そこへ突如として津波が押し寄せ阿鼻叫喚の無惨な光景となった。今は雨となり夜明け近くに数回の予震がある。波はさながら疾風怒濤のように押し寄せ、家屋をはじめ人や家畜などを飲み込んでいった。磯鶏村はその災害甚だしく、高浜、金浜二区、磯鶏では石崎、飛鳥方、神林、白浜で流失家屋121戸、死者96名。津波は南は陸前石巻、北は陸奥北部に達し約3万人が羅災した。これは災害から7年を記念し磯鶏区民一同、愛友団員が碑を建立し後世に伝える。というような内容と推測される。

 南部藩の記録によると宮古を含む三陸沿岸は藩政時代から何度ととなく津波災害にさらされてきた歴史がある。津波は天明や宝暦などの大飢饉の時にも容赦なく襲い家や船を飲み込んでいる。近年そうした津波災害防備に関する認識は若干向上はしているが体験者の高齢化などにより語り継ぐ人も少なくなり過去のものとされつつあるようだ。

沢田・常安寺の水難事故供養塔
故金沢多助宝勇太郎鈴木松太郎鈴木福太郎松
原専平之霊位明治四十年旧五月十六日朝鮪流
網帰漁之途於七海里沖合浮流水雷□漂流欲捕
押一刹那誤成爆発遂惨死同業者一同実病悼至
不堪依之聊為霊魂慰碑建之
北川目・日露戦争記念碑
明治三十七八年二月十日公戦之
御詔勅下九月遼陽陥落
一月旅順口敵軍全部降伏吾軍占領
一月黒溝台三月奉天付近大会戦
七月樺太上陸敵軍降伏全島占領
八月於米国講話談判開始九月終結
十月講話御詔勅降下
磯鶏・海嘯記念碑
恰当端午佳節家々酔祝酒之日突如而来忽現出
阿鼻叫喚修羅巷明治二十九年六月十五日之海
嘯豈夫不無惨平今既記光景此日陰暗憺時々
雨至於薄暮感羽震数回後遙聞如段々遠雷異響
人皆 之偶数大洪濤宛如疾風激来 両回破砕
家屋斃人畜頗極惨矣本村其害最甚者為高浜金
浜二区及磯鶏区内石崎飛鳥方神林白浜四所流
失家屋百廿一戸死者九十六名海嘯区域南自陸
前石巻北至陸奥北郡奪生霊殆三萬可謂極悲惨
矣会茲丁七年忌為記念磯鶏区民一同及愛友団
員相謀建碑以伝後昆伝爾
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