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岩泉線

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JR東日本の「岩泉線」は宮古市の茂市と隣接の岩泉町・岩泉を結ぶ38・4キロのローカル線だ。以前は「小本線」と呼ばれ、岩泉線と改称したのは昭和47年である。一日の運転本数は全区間が3往復、茂市-岩手和井内の区間列車が1往復運転されている。輸送量も少なく国内有数の超ローカル線だ。しかし、近年は秘境駅のある路線として鉄道マニアや観光客の間で密かな人気ともなっている。
 
JR東日本の「岩泉線」は宮古市の茂市と隣接の岩泉町・岩泉を結ぶ38・4キロのローカル線だ。以前は「小本線」と呼ばれ、岩泉線と改称したのは昭和47年である。一日の運転本数は全区間が3往復、茂市-岩手和井内の区間列車が1往復運転されている。輸送量も少なく国内有数の超ローカル線だ。しかし、近年は秘境駅のある路線として鉄道マニアや観光客の間で密かな人気ともなっている。
 
1987年の国鉄分割民営化で多くの輸送量が少ないローカル線が廃止された中にあって、残った岩泉線はよりローカル色の濃い路線として注目が増したものだ。1両で山峡を走るロケーションは多くの人の郷愁を誘う。鉄道雑誌にも取り上げられ撮影のために足を運ぶファンは多い。
 
1987年の国鉄分割民営化で多くの輸送量が少ないローカル線が廃止された中にあって、残った岩泉線はよりローカル色の濃い路線として注目が増したものだ。1両で山峡を走るロケーションは多くの人の郷愁を誘う。鉄道雑誌にも取り上げられ撮影のために足を運ぶファンは多い。
 
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== '''廃線が決まった岩泉線''' ==
== '''岩泉線は沿線住民の足・現在の岩泉線''' ==
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三陸鉄道が華々しく再開運行を果たした陰で、ひっそりと幕を閉じたJR岩泉線。赤字路線としてその存続が長い間取りざたされていたが、平成22年7月31日に発生した土砂崩落、脱線事故以来、長期にわたって運休となっていた。JR東日本は鉄路による復旧を断念しバス運行に切り替えたが、今年4月1日をもって同線を廃止した。戦時下の昭和17年、岩泉町小川から産出した耐火年度を釜石製鉄所へ搬出する貨物鉄道として開業した岩泉線。沿線住民の足として大きな役割を果たしながらも、近年は利用者も減少。その存続の願いもむなしく70余年の歴史に終止符を打った。
早朝の5時30分、宮古駅から発車し茂市駅-岩手和井内駅を通学列車として往復、その後岩泉行きとなった列車は7時53分に岩泉に到着、その後運転台を交換し8時01分宮古行きとして岩泉駅を発車する。列車には宮古へ用足しや病院などへ通院するための乗客が乗り込んでくる。その数は二升石、浅内、岩手大川と停車するたびに増え座席が埋まってゆく。押角トンネルを通過するとあとは山間の里を縫うように走り、岩手和井内、中里、岩手刈屋と停車し乗客を増やしながら8時52分、茂市駅に到着。ここで上りの快速リアス9時33分に連絡する。列車は岩泉線から山田線に入り、蟇目、花原市、千徳と停車、列車はほぼ満員で9時15分、宮古駅へ定刻到着する。<br>
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== '''全鉄道路線で輸送密度最下位まで落ち込む''' ==
戦前から戦中にかけて釜石製鉄で使う耐火粘土を搬出するために整備された岩泉線。戦後は浅内駅をターミナルにして岩泉町の豊富な木材を運び、そして昭和57年貨物輸送が廃止され旅客鉄道として存続してきた。その間バスやマイカーなどの交通手段の変革に伴い利用者を減らしながら便数が減らされ現在は三往復(一往復は茂市-岩手和井内)のみのダイヤとなった。しかし、実際に列車に乗ってみると多くの人が岩泉線に依存して生活していることがわかる。列車は現在も住民の足として確実に利用されているのである。さりとて、鉄道の維持管理費と天秤にかければ赤字ローカル線の汚名を払拭するまでには至らないだろう。しかし、押角峠を含む国道340号線の整備促進も今後の目処も立たない現在、沿線住民にとって岩泉線が唯一の交通機関である以上、今後も岩泉線が存続し続けてほしいと願うばかりだ。<br>
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岩泉線は宮古市茂市と岩泉町岩泉を結ぶ38・4キロのローカル線だった。以前は小本線と呼ばれ、岩泉線と改称したのは昭和47年である。
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戦時中、岩泉から産出した耐火粘土を釜石まで運ぶために開業し、戦後は下閉伊地域の豊富な木材を運び、終点浅内駅は展車台を備えた貨物ターミナルとして活気があった。この間、最大の旅客輸送量を記録したのは岩泉まで全通した後の昭和50年で、約61万7千人であった。その後減少の一途をたどり、国鉄分割民営化から少し後の平成元年度では11万8千人だったものが、平成7年の実績では8万9千人にまで落ち込んだ。貨物輸送量が最も多かったのは昭和35年で、約18万トンの輸送量があったが、貨物輸送が廃止される前年の昭和56年時点では1万7千トンであった。しかし、その後の輸送人員は激減し、平成7年年の1日の利用者数はわずか186人程度という鉄道の輸送人員とは思えない数字であり、1日1㎞あたりの平均輸送密度は平成6年時点で94人/日だった。さらに平成21年の輸送密度は46人/日にまで落ち込んでいた。これは、JR東日本の在来線全67線はもとより、JRグループ全路線、また、私鉄・第三セクター鉄道を含めた全鉄道路線の中でも最下位となる数字であった。
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== '''鉄道ファン注目のローカル線として人気''' ==
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事故によって運行が休止された岩泉線だったが、休止前は輸送量も少ない国内有数の超ローカル線ではあったが、近年は秘境駅のある路線として鉄道ファンや観光客の間で密かな人気ともなった。
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昭和62年の国鉄分割民営化で多くの輸送量が少ないローカル線が廃止された中にあって、岩泉線はよりローカル色の濃い路線として注目もされた。全国的に数少なくなった国鉄時代からの旧タイプディーゼルカー、キハ52が1両で走るロケーションは多くの人の郷愁を誘った。鉄道雑誌にも紹介され撮影のために足を運ぶファンも多かった。列車は1日3往復。沿線は四季折々の山里風景が連なり、1000メートル毎に30メートル登る急勾配の難所押角峠は秘境そのものだった。
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== '''岩泉線がモデルの童話''' ==
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 宮古市出身の童話作家・茂市久美子さんの作品に岩泉線を走るディーゼルカーの車掌と乗客で乗ってきた不思議な女の子との出会いを描いた『おちばおちばとんでいけ』という作品がある。物語はある日小さな駅から乗ってきた女の子を乗せた車両が多量の落ち葉でスリップしてしまい走行できなくなる。車掌はレールに砂を撒いて対処するが、女の子が歌う不思議な歌とともに風が吹いて落ち葉が吹き飛んでしまう。列車は無事に発車し車掌は胸をなで下ろした。車掌は落ち葉を吹き飛ばしたお礼にと、後日女の子が欲しがっていた赤いリボンと風船を女の子が降りた駅に置くのだった。駅名は変えられているが、まさに岩泉線の情景が浮かんでくる心温まる作品だ。この作品は画家・中村冬児の挿絵で平成3年に国土社から発行されている。
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== '''岩泉線が歩んだ半世紀の旅路''' ==
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岩泉線はもともと現在の三陸鉄道小本駅までを結ぶ鉄道として計画されたものだ。そのため昭和47年までは小本線と呼ばれていた。時は世界大戦の中、緊迫した状況の中で小本線が着工されたのには理由があった。それは、小本川上流域(岩泉町門付近)で採掘される耐火粘土(シャモット。製鉄所で使用する耐火煉瓦の原材料)の存在だった。製鉄の過程で必要不可欠なこの耐火粘土をここから釜石の製鉄所へ輸送するための準軍事輸送路として小本線は誕生したのだ。茂市~和井内開業後、岩手和井内~押角が貨物路線として開業。最大難所の押角トンネル(2987m)も貫通し、出口付近に宇津野駅が仮営業し耐火粘土の輸送に使われた。戦後復興後も鉄は重要で、宇津野駅は昭和49年には本格開業となった。宇津野から門の鉱山までは索道も作られ耐火粘土を輸送したという。
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昭和47年に小本線は岩泉まで延長された。この時に岩泉線として改称された。この時点で岩泉町沿岸の小本まで延長という計画は無くなったに等しかった。釜石製鉄所の熔鉱炉の火が落ち、鉱山もその主要出荷先を失い閉山、規模を縮小して新会社が設立されたが坑道での採掘は止めてしまった。
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岩泉線はその建設の動機となった粘土鉱山の廃止、周辺の過疎化で輸送量は落ちるだけ落ちた。並行する国道340号が代替え道路として不適切という状況で、なんとか廃止を免れては来た。しかし、岩手県が、岩泉線の廃線が避けられない場合、押角峠の道路改良を行うために岩泉線の押角トンネルを利用する方針を示し、平成24年11月中に宮古市・岩泉町がこの方針を受け入れる方向で最終調整が進められていた。同月7日、岩泉線を廃止することでJR東日本・岩手県・宮古市・岩泉町が合意し、翌8日、国土交通省に廃止届が提出された。
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平成25年12月19日に意見聴取が行われた結果、廃止日の平成26年4月1日への繰り上げが認められ、廃止日を繰り上げる届出今年1月8日に国土交通省へ提出された。廃止後は、岩泉町に本社のある東日本交通による路線バスに引き継がれた。
 
<small>時刻表記は2007年6月現在</small>
 
<small>時刻表記は2007年6月現在</small>
  

2015年1月21日 (水) 14:16時点における版

目次

耐火粘土を運ぶ貨物路線として昭和17年開業

JR東日本の「岩泉線」は宮古市の茂市と隣接の岩泉町・岩泉を結ぶ38・4キロのローカル線だ。以前は「小本線」と呼ばれ、岩泉線と改称したのは昭和47年である。一日の運転本数は全区間が3往復、茂市-岩手和井内の区間列車が1往復運転されている。輸送量も少なく国内有数の超ローカル線だ。しかし、近年は秘境駅のある路線として鉄道マニアや観光客の間で密かな人気ともなっている。 1987年の国鉄分割民営化で多くの輸送量が少ないローカル線が廃止された中にあって、残った岩泉線はよりローカル色の濃い路線として注目が増したものだ。1両で山峡を走るロケーションは多くの人の郷愁を誘う。鉄道雑誌にも取り上げられ撮影のために足を運ぶファンは多い。

廃線が決まった岩泉線

三陸鉄道が華々しく再開運行を果たした陰で、ひっそりと幕を閉じたJR岩泉線。赤字路線としてその存続が長い間取りざたされていたが、平成22年7月31日に発生した土砂崩落、脱線事故以来、長期にわたって運休となっていた。JR東日本は鉄路による復旧を断念しバス運行に切り替えたが、今年4月1日をもって同線を廃止した。戦時下の昭和17年、岩泉町小川から産出した耐火年度を釜石製鉄所へ搬出する貨物鉄道として開業した岩泉線。沿線住民の足として大きな役割を果たしながらも、近年は利用者も減少。その存続の願いもむなしく70余年の歴史に終止符を打った。

全鉄道路線で輸送密度最下位まで落ち込む

岩泉線は宮古市茂市と岩泉町岩泉を結ぶ38・4キロのローカル線だった。以前は小本線と呼ばれ、岩泉線と改称したのは昭和47年である。 戦時中、岩泉から産出した耐火粘土を釜石まで運ぶために開業し、戦後は下閉伊地域の豊富な木材を運び、終点浅内駅は展車台を備えた貨物ターミナルとして活気があった。この間、最大の旅客輸送量を記録したのは岩泉まで全通した後の昭和50年で、約61万7千人であった。その後減少の一途をたどり、国鉄分割民営化から少し後の平成元年度では11万8千人だったものが、平成7年の実績では8万9千人にまで落ち込んだ。貨物輸送量が最も多かったのは昭和35年で、約18万トンの輸送量があったが、貨物輸送が廃止される前年の昭和56年時点では1万7千トンであった。しかし、その後の輸送人員は激減し、平成7年年の1日の利用者数はわずか186人程度という鉄道の輸送人員とは思えない数字であり、1日1㎞あたりの平均輸送密度は平成6年時点で94人/日だった。さらに平成21年の輸送密度は46人/日にまで落ち込んでいた。これは、JR東日本の在来線全67線はもとより、JRグループ全路線、また、私鉄・第三セクター鉄道を含めた全鉄道路線の中でも最下位となる数字であった。

鉄道ファン注目のローカル線として人気

事故によって運行が休止された岩泉線だったが、休止前は輸送量も少ない国内有数の超ローカル線ではあったが、近年は秘境駅のある路線として鉄道ファンや観光客の間で密かな人気ともなった。 昭和62年の国鉄分割民営化で多くの輸送量が少ないローカル線が廃止された中にあって、岩泉線はよりローカル色の濃い路線として注目もされた。全国的に数少なくなった国鉄時代からの旧タイプディーゼルカー、キハ52が1両で走るロケーションは多くの人の郷愁を誘った。鉄道雑誌にも紹介され撮影のために足を運ぶファンも多かった。列車は1日3往復。沿線は四季折々の山里風景が連なり、1000メートル毎に30メートル登る急勾配の難所押角峠は秘境そのものだった。

岩泉線がモデルの童話

 宮古市出身の童話作家・茂市久美子さんの作品に岩泉線を走るディーゼルカーの車掌と乗客で乗ってきた不思議な女の子との出会いを描いた『おちばおちばとんでいけ』という作品がある。物語はある日小さな駅から乗ってきた女の子を乗せた車両が多量の落ち葉でスリップしてしまい走行できなくなる。車掌はレールに砂を撒いて対処するが、女の子が歌う不思議な歌とともに風が吹いて落ち葉が吹き飛んでしまう。列車は無事に発車し車掌は胸をなで下ろした。車掌は落ち葉を吹き飛ばしたお礼にと、後日女の子が欲しがっていた赤いリボンと風船を女の子が降りた駅に置くのだった。駅名は変えられているが、まさに岩泉線の情景が浮かんでくる心温まる作品だ。この作品は画家・中村冬児の挿絵で平成3年に国土社から発行されている。

岩泉線が歩んだ半世紀の旅路

岩泉線はもともと現在の三陸鉄道小本駅までを結ぶ鉄道として計画されたものだ。そのため昭和47年までは小本線と呼ばれていた。時は世界大戦の中、緊迫した状況の中で小本線が着工されたのには理由があった。それは、小本川上流域(岩泉町門付近)で採掘される耐火粘土(シャモット。製鉄所で使用する耐火煉瓦の原材料)の存在だった。製鉄の過程で必要不可欠なこの耐火粘土をここから釜石の製鉄所へ輸送するための準軍事輸送路として小本線は誕生したのだ。茂市~和井内開業後、岩手和井内~押角が貨物路線として開業。最大難所の押角トンネル(2987m)も貫通し、出口付近に宇津野駅が仮営業し耐火粘土の輸送に使われた。戦後復興後も鉄は重要で、宇津野駅は昭和49年には本格開業となった。宇津野から門の鉱山までは索道も作られ耐火粘土を輸送したという。 昭和47年に小本線は岩泉まで延長された。この時に岩泉線として改称された。この時点で岩泉町沿岸の小本まで延長という計画は無くなったに等しかった。釜石製鉄所の熔鉱炉の火が落ち、鉱山もその主要出荷先を失い閉山、規模を縮小して新会社が設立されたが坑道での採掘は止めてしまった。 岩泉線はその建設の動機となった粘土鉱山の廃止、周辺の過疎化で輸送量は落ちるだけ落ちた。並行する国道340号が代替え道路として不適切という状況で、なんとか廃止を免れては来た。しかし、岩手県が、岩泉線の廃線が避けられない場合、押角峠の道路改良を行うために岩泉線の押角トンネルを利用する方針を示し、平成24年11月中に宮古市・岩泉町がこの方針を受け入れる方向で最終調整が進められていた。同月7日、岩泉線を廃止することでJR東日本・岩手県・宮古市・岩泉町が合意し、翌8日、国土交通省に廃止届が提出された。 平成25年12月19日に意見聴取が行われた結果、廃止日の平成26年4月1日への繰り上げが認められ、廃止日を繰り上げる届出今年1月8日に国土交通省へ提出された。廃止後は、岩泉町に本社のある東日本交通による路線バスに引き継がれた。 時刻表記は2007年6月現在

岩泉線の歴史

岩泉線は1942年に茂市-岩手和井内間が建設された。当初は茂市から岩泉経由で現在の三陸鉄道北リアス線の小本までを結ぶ鉄道として計画された。そのため建設から1972年までは小本線と呼ばれていた。
時は世界大戦の中、緊迫した状況の中で小本線が着工されたのには理由があった。その理由は、小本川上流域(岩泉町門付近)で採掘される耐火粘土(シャモット。製鉄所で使用する耐火煉瓦の原材料)の存在だった。製鉄の過程で必要不可欠なこの耐火粘土をこの鉱山から釜石の製鉄所へ輸送するための準軍事輸送路として「小本線」はこの世に誕生した。
茂市-和井内開業の後、岩手和井内-押角が貨物線として開業。最大難所の押角トンネル(2987m)も貫通し、出口付近に宇津野駅が仮営業し耐火粘度の輸送に使われた。戦後復興後も鉄は重要で、宇津野駅は1947年には本格開業となった。宇津野から門(かど)の鉱山までは索道も作られ耐火粘度を輸送したという。
小本線は1972年に岩泉まで延長された。この時に岩泉線として改称された。この時点で小本延長ということは無くなったに等しい。釜石製鉄所の高炉の火が落ち、鉱山もその主要出荷先を失い閉山、規模を縮小して新会社が設立されたが坑道での採掘は止めてしまった。
岩泉線はその建設の動機となった粘土鉱山の廃止、周辺の過疎化で輸送量は落ちるだけ落ちた。並行する国道340号線が代替道路として不適切ということで岩泉線は残ってはいるが、現代の日本でこのような鉄道が世紀を越えて生き残っているということは奇跡とも言える。

岩泉線の沿革

茂市ー岩泉間 38・4キロ駅数9駅/全線単線/全線非電化/閉塞方式
昭和17年 (1942) 6月25日 開業、茂市-岩手和井内(10・0キロ)当初は小本線だった
      岩手刈屋、岩手和井内駅が新設された(茂市駅は昭和9年に山田線の駅として開業)
昭和19年 (1944) 7月20日 延伸開業、岩手和井内ー押角(5・8キロ)貨物営業のみ
      貨物押角駅新設
昭和22年 (1947) 11月25日 延伸開業、押角-延伸開業(4・5キロ)旅客営業開始
      (岩手和井内-押角)、宇津野駅新設、押角駅貨物から一般駅へ
昭和23年 (1948) 11月26日 風水害で全線営業休止
昭和24年 (1949) 3月5日 全線復旧営業再開
昭和32年 (1957) 5月16日 延伸開業、延伸開業-浅内(10・9キロ)。岩手大川駅、浅内駅新設。宇津野駅廃止
昭和41年 (1966) 10月1日 中里駅新設
昭和47年 (1972) 2月6日 延伸開業 浅内ー岩泉(7・4キロ)旅客営業のみ。二升石駅、岩泉駅新設。岩泉線と改称
昭和57年 (1982) 11月15日 茂市-浅内貨物営業廃止
昭和59年 (1984) 6月22日 運輸大臣が廃止承認を保留した
昭和60年 (1985) 8月2日 代替道路未整備を理由に廃止対象から除外される
昭和61年 (1986) 4月1日 岩手和井内、浅内駅無人化に伴い、茂市ー岩泉間閉塞化となる
昭和62年 (1987) 4月1日 国鉄分割民営化により東日本旅客鉄道が承継する
平成15年 (2003) 10月11日 快速キハ52・58岩泉号が運転され多くの乗客が岩泉線を訪れた

関連事項

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