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宮古地名図鑑(数字編)

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数字のついた地名はその地区を行政的に区分けした名残だったり、その土地から収穫できる穀物の生産高だったりする。また、沢や川の分かれ目、信仰対象の数などもあり変わったところでは税金を徴収した役所に由来するものもある。しかし数字的に「四」は「し」と読み「死」に通じることから地名として定着はしないようだ。また、宮古周辺には「万」「億」などの大きな数字の地名もなかった。

目次

三十刈(さんじゅかり)

刈の字は穀物を収穫した量を表す

三十刈は現在の和井内21地割で和井内郵便局周辺の小字名だ。「刈」とは米をはじめとした穀物の収穫を「石(こく)」と表現する以前の古い単位で、ある定数でひと固まりに束ねたものを1刈という単位にしたもの。三十刈は30刈の収穫が見込める土地という意味。

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地図

https://goo.gl/maps/svnHv :三十刈付近

七所内沢(ななしょないざわ)

閉伊七社のひとつが祀られる沢

松山地区の東側にある沢の別称。伝説によると閉伊頼基とともに殉職した太田嶋源太郎忠連(おおたじまげんたろうただつら)を祀った松山明神がある沢の別称。殉職した7人の重臣は、区界、老木、川井、川内、小国、川崎(新里)そして松山に祀られ明神として土地を守護すると伝えられている。個人の家の通用口から折れた小径に鳥居があり社は松林の中にある。あまり目立たないため同地区の住民にもあまり知られていない。

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地図

https://goo.gl/maps/IIMde :七所内沢付近

七々清水(ななしみず)

刈屋川周辺に流れ込む支流の沢

七清水は現在の刈屋6地割の路線バスの和井内線・丹野(たんの)停留所付近の小字名だ。周辺で聞き込みをしたが場所の特定は出来なかった。おそらく茂市から押角峠を経て岩泉へ向かう旧街道にわき水がありその名が小字名になったと思われるが道路工事や区画整理で忘れ去られたのであろう。

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地図

https://goo.gl/maps/DzxoV :七々清水付近

長沢六組(ながさわろっくみ)

各区割を番号で振り分けた

花輪村に合併する前の長沢村は各区割りに番号を振って行政区としていた。当時は1組から6組まであったと思われるが、現在は統合され路線バスの停留所にその名残として、長沢四組、五組、六組の名称が残る。ちなみに六組は長沢最深部の南・北両川目地区を含んでおり腹帯、豊間根と接する。
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地図

https://goo.gl/maps/F33h6 :長沢六組付近

百刈向(ひゃっかりむかい)

刈屋川にそった傾斜地

米をはじめとした穀物の収穫量を表す古い単位の「刈」を地名に持つ百刈向は現在の和井内5地割。刈屋川を挟んで例えで百刈も収穫する肥沃な土地の向かいという意味。背後に山があり耕作には不向きな荒れ地で現在民家はない。向かいは和井内小学校付近。

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地図

https://goo.gl/maps/dCo1O :百刈向付近

百峰(とよみね)

修験道場のある幽玄の地

 南・北両川目に向かう長沢六組のバス停留所から左に折れるとコンクリート製の大鳥居があり、道なりにゆくと金剛山大霊場・厳真流大本山と称する修験道場に着く。この付近は昔から大笹山(612)神楽森(475)の尾根の北側で険しい山稜を百峰(とよみね)と呼んでいた。霊場の看板にその名残が残っていた。
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地図

https://goo.gl/maps/CauJC :百峰付近

二又(ふたまた)

支流の沢が二手に分かれる

二又川を挟んで蟇目地区から北側に位置する集落が二又地区だ。古くは牛馬を連れて源兵衛平に続く道があったが、現在は所々途切れている。集落入り口には愛宕神社があり、側の民家には神木を意味する榎(エノキ)がありオオムラサキが飛来するポイントでもある。

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地図

https://goo.gl/maps/9NpFV :二又付近

千徳(せんとく)

日照りが続き殿様が託宣で泉を得た

時代は定かでないが千徳は元々中村と呼ばれていたという。ある年日照りとなり田の水が干あがったとき、殿様が託宣を得て豊富なわき水を得たので「泉徳(せんとく)」と改称したがのちに千徳へ変わったという。ちなみに藩政時代の千徳は閉伊川氾濫によるの洪水の歴史だ。

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地図

https://goo.gl/maps/OsYEU :千徳付近

五月町(さつきちょう)

一面すべて田んぼの耕作地

五月町は昭和40年以降に命名された新しい地名。元々五月町は一面が水田だったこともあり、田植え時期を意識した農神が里へ下りるという「さなぶり」の五月を名称に取り入れたもの。当時、緑ヶ丘と並んでラサ工業の社宅が建ち並んだが現在は振興局、消防署、魚菜市場がある。

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地図

https://goo.gl/maps/Vxuka :五月町付近

十分の一沢(じゅうぶんのいちざわ)

揚げ荷の一割を徴集した鍬ヶ崎の役所

市内鍬ヶ崎の現上町、仲町の間にある沢のある地域。「十仏沢」「じゅうぶいちざわ」とも言い、南部藩時代、この場所には役場が設置されていて、「十分の一運上所」と名付けられた税所があった。すなわち船や魚類などに十分の一、つまり一割の税をかけた。役場は高台の場所のところにあり、今でもその場所から宮古湾をみ見下ろすことが出来る。

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地図

https://goo.gl/maps/7Uywp :十分の一沢付近

一の渡(いちのわたり)

鶯が飛び交う山間の集落

数字の地名で始まる代表的なものがこの「一の渡」だ。宮古市の市街地の北西部に位置する崎山地区の小さな集落。ここには三陸鉄道「一の渡」駅がある。一の渡とは、最初の渡渉地という意味。「市の渡」で、市へ行く道の渡渉地である。一では、このほか花輪地区に壱の坂、一ノ坪という地域がある。壱の坂は一番目の坂、一ノ坪は、一番目の集落のことを指すほか、市の坪で、市が開かれる場所のことだ。
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地図

https://goo.gl/maps/Z7Vfn :一ノ渡付近

七滝(ななたき)

七つの滝が連なる川があるはず

田老地区の小田代地域からさらに西へと7~8キロほど入った奥に位置する小さな集落。七滝という地名は一般的にもあり、滝の連なる場所のところに見られる。そこに流れる川を見ることは出来ないが、のどかな田園風景の場所。七滝を祀る個人の小さな社があるという。

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地図

https://goo.gl/maps/pPzeS :七滝付近

八川(やっかわ)

端川、端側が変化した地名か

市街地北西部の崎山地区にあるわずか数戸の集落。「八川」と書いて「やつかわ」と読む。「端川」から発生したもので、村の端の河岸のことを指す。三陸鉄道一の渡駅を過ぎ、4叉路の道を右に入って大きなカーブにさしかかったところにある。

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地図

https://goo.gl/maps/qUN6C :八川付近

八ツ石(やついし)

特徴的な八つの石があった?

田老地区の向桑畑地区にある集落地。県立宮古北高校のある通りを西へ進み、青倉地区へ行く途中にある地域。地名は八つの石を表す意味で、かつて大きな石があったものだろうと推察される。のどかな田園風景が残る場所でもある。

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地図

https://goo.gl/maps/2u84Q :八ツ石付近

千束(せんぞく)

重茂半島突端の集落。広大な刈場を意味する

宮古湾の東側対岸、重茂半島の重茂地区北側、鵜磯集落を過ぎた附近の小さな集落。千束とは、千束を刈るほどの広い茅刈り場の意味と、千駄焚きの雨乞場の意味がある。また、市内崎山地区には千束長根の地名も残る。

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地図

https://goo.gl/maps/jioKb :千束付近

十二神山(じゅうにしんざん)

薬師を守護する武神に由縁

宮古市と山田町の境界にある重茂半島最高の山の名前、標高731メートル。古文書によれば「薬師十二神立ち賜う。御本尊は唐金にして八寸五分なり」とある。山の中央に薬師如来が鎮座し、それを護る十二の神々(十二武神)が鎮座していることから、この名の由来となった。

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地図

https://goo.gl/maps/SCQG7 :十二神山付近

八枚田(はちまいだ)

文字通り八枚の田んぼ

津軽石地区赤前にある一部地域の地名。宮古運動公園前のあたりだ。3つの意味があり、鉢前田で、手水鉢の前の田。谷地前田の転訛で、湿地の前の田。八枚田で、八枚の田から来ている。現在でも「八枚田」という屋号の家も残る。

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地図

https://goo.gl/maps/Qx7ej :八枚田付近

三ツ石(みついし)

機織り岩と負滝

川井古田地区と腹帯地区の境は蛇行する閉伊川が渓谷を作っておりそこに三基の巨岩があったことからSの周辺を三ツ石と呼ぶようになった。場所は旧腹帯村の外れで現在は閉伊川腹帯水力発電所の大沢ダムへ渡る吊り橋付近だ。ここには閉伊川対岸に負滝と呼ばれる滝があり明治期の『下閉伊郡志』には滝とそこに起立する機織岩があると掲載されている。周辺には洞穴もありむかしこの岩で天女が機織りをしていたという伝説が残っている。現在滝の水量は減り往時の様子はないが、大沢ダム方水路下流には落差30メートルほどの滝がある。三ツ石付 近は国道106号線沿いだが国道はトンネル化しており渓谷を見るためには旧道に入らなければならない。

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地図

https://goo.gl/maps/7GoC9 :三ツ石付近

八木沢(やぎさわ)

中世の豪族八木沢氏の領地だった

大谷地から流れ、磯鶏を経て宮古湾に注ぐ八木沢川にそって拓けたのが八木沢だ。古くは中世の時代八木沢神社背後の山に舘を築いてこの地を統治した八木沢氏に関係しその名前が八木沢村となり明治期に川下の磯鶏村と合併し磯鶏村八木沢となった。中世の時代には津軽石と千徳を結ぶ中間点であり交通の要所だった。江戸期には舘が八木沢川を挟んで対岸に築かれ八木沢新舘となった。藩政時代には高浜村~松山村の中間点として交通の要路だった。 なお、八木沢神社の神木だった欅の巨木から帆船にっぽん丸の舳先女神像が切り出されている。

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地図

https://goo.gl/maps/dKTth :八木沢付近

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